村上大辞典

あ行 か行 さ行 た行 な行
は行 ま行 や行 ら行 わ行




【内藤家】
 徳川家康の異母弟信成を祖とする。信成は内藤清長の養子となったが、清長に実子が生まれたので、分かれて一家をたてる。早くから家康に仕え、家康江戸入府のとき伊豆国韮山城一万石賜り、慶長六年(1601)駿河石駿府城四万石、同十一年近江国長浜城四万石に移る。信成の子 信正は、元和元年(1615)摂津国高槻城四万石に移封、また大阪城代に就任。その子信照は、寛永四年(1627)陸奥国棚倉城五万石に転じ、その子信良を経て、信良の養子弌信(かずのぶ)は、棚倉から駿河国田中城五万石に移り、大阪城代勤仕後、享保五年(1720)越後国村上城五万石を領す。以後子孫五万石を世襲して明治にいたる。戊辰戦争に際会した信民は、藩論二分のなかに苦悩の末、明治元年(1868)七月城中に急死。翌二年二月後嗣に迎えられた信美が最後の藩主。帝鑑間詰。同十七年信任が子爵を授けられる。
【内藤信成】(1545−1612)
 天文14年(1545)五月五日三河の住人島田景信の家に生まれる。母は内藤清長の女。父は「寛政重修諸家譜」では景信としているが、実は松平広忠が侍女であった内藤清長の女に産ませた子で、徳川家康の異母弟にあたる。祖父内藤清長の養子となり、弘治三年(1557)岡崎において松平元信(のちの家康)に拝謁、その一字を賜り、信成と名乗り近侍した。永禄元年(1558)三河広瀬城攻めを皮切りに家康の元で数々の戦闘に従事、同五年には三河国中島に采地六百石を与えられ、元亀元年(1570)家督を清長の実子家長に譲り、別に一家を興した。天正三年(1575)長篠の戦では先手の侍大将を勤め織田信長の賛辞を受け、以後武田攻めに従事、同八―九年の遠江国高天神城攻略に功あり、同十年には東三河先方の兵を率いて甲斐国に攻め込んだ。同十二年、長久手の戦では清州城本丸を守衛。同十七年、六千石加増、甲斐国常光寺城に住す。翌年小田原攻めに従軍、その武備を豊臣秀吉に賞され、後北条氏降参ののち小田原城を受け取る。八月伊豆国に一万石を与えられ韮山城主。慶長六年(1601)に加増されて駿河国府中城主(四万石)。同八年、従五位下豊前守に叙任。同十一年上方の警衛のため領地を近江国坂田・浅井・伊香三郡の内に移され、長浜城主。同十七年七月二十四日長浜において没す。享年68。法善院大誉陽竹宗賢と号す。