村上大辞典

あ行 か行 さ行 た行 な行
は行 ま行 や行 ら行 わ行



【青砥武平治】(1713−1786)
 江戸時代、鮭は村上藩の重要な財源であった。鮭漁を更に盛んにしたのが、藩の下級藩士・青砥武平冶(あおと ぶへいじ)であった。正徳3年(1713)に村上藩士金沢儀左衛門の二男として出生。幼い時に青砥冶兵衛の養子となった。
 武平冶は鮭の回帰性に着目し、鮭の産卵と稚魚を保護するための施設として、三面川下流域に「種川(たねがわ)」を設置することを考えた。
 測量術の皆伝者であった武平冶は、当初(武平冶30歳前後の延享年間か?)は産卵に適した場所を選び、川幅の三分の一、長さ三十〜五十間位の水界を蔦や柴で区切り「種川」とした。ここでの鮭漁を禁止して、鮭の自然ふ化法を考案した。
 一方、藩の堰奉行が中心となり村上町役人や漁師の協力を得て、鮭漁の漁場作りと漁場規制を取り入れた入札制度を完成させた(安永年間か?)。この頃になると、武平冶考案の「種川」の規模も支流一杯に拡張され、ここに「種川の制」が完成し、運上金も寛政8(1796)年以後は、1000両を越えるようになった。
 武平冶は、「郷村秘要集(ごうそんひようしゅう)」、「家言之弁(かげんのべん)」を著し、民衆の統治と農業振興、租税制度などについて藩へ献策するほどの人物で、村上藩財政のカギを握っていた三条領の代官の要職につき70石を給された。
 
【有磯周斎】(1805−1879)
文化2年(1805)12月11日、村上大工町の稲垣八郎兵衛の二男として生まれる。はじめ父について家業(宮大工)を習っていたが、彫刻を好み長じてからは置物や根付等の制作に携わる。天保元年二十五歳の春、伊勢参宮の帰途、京阪、鎌倉、江戸、日光などをめぐり、神社仏閣を参拝して大いに感得するところあり、以来専心彫刻をもって身を立てることにする。天保5年(1834)再び江戸に出て彫刻の技を究める傍ら堆朱堆黒など?漆の法を修め、帰国後は専ら彫刻きゅう漆による美術工芸品を制作し、各地に販路を広げるとともに技術の普及に腐心する。嘉永2年(1849)藩主内藤信親が祖廟藤基神社を造営するに際し、彫刻の棟梁として弟又八とともに精魂込めて鑿を振るった。文久元年(1861)江戸藩邸における祖廟の造営にも従事し、荒磯に鷹(鶴亀とも)の図を彫刻した欅の大衝立を制作。これが藩侯より幕府に献上され、大いに名声を博した。これらの功により、名字、帯刀と合印を許されて、有磯周斎と名のるようになった。明治12年(1879)8月16日没。享年75歳。 没後20年たって明治31年5月京都で開催された漆器共進会において「よく堆朱黒彫を研修し、販路の拡張を謀り、ついに村上漆器の名声を今日に保持せしむ」の功によって農商大臣金子堅太郎から追賞された。
【有磯周亭】(1866−1905)
慶應2年出生。有磯周斎の孫。上京して絵を滝和亭に学ぶこと4年。帰郷してその技法を彫刻に応用する。画風は清淡で草花図が多く、また精緻な木堆朱の小品漆絵の優れた作品を残している。多くの門弟を指導する一方自らも研鑚に務め、海外諸国にも出品し、村上の堆朱堆黒に新生面を開き、新道の発展を図った。明治38年(1905)8月23日没。享年40歳。
【稲垣吉蔵】(1876−1951)
明治9年(1876)4月1日村上市小国町の稲垣末吉の二男として生まれる。小学校卒業後父について家業の彫刻を習う傍ら、有磯周亭について修行する。22歳の頃、志を立てて上京し、東京美術学校に入る。苦学力行し、同37年彫刻科を卒業する。学校から推薦されて香港に渡り、更に39年フランス留学を命ぜられて渡仏し、フランスの彫刻を研究するとともに日本の美術をフランスに教授する。たまたま自己の作品を店頭に陳列しておいたのが巨匠ロダンの目にとまり、その技術の優秀性が評価されてロダンの助手となる。ロダンの技術上の相談相手になるとともにロダンの晩年には秘書的存在であった。昭和26年(1951)5月5日、渡仏以来一度も帰国することなく没。享年76歳。
【稲葉 修】(1909−1992)
明治42年(1909)、代々村上内藤藩の藩医を勤めた稲葉家の九男一女の末っ子として村上市堀片に生まれた。村上本町小学校から旧制村上中学校に進み、五年生のとき同盟休校主導の責任を取り退学、翌年旧制山形高等学校に進んだが、ここでも集団カンニング事件の責任をかぶり退学するなど武勇伝を残した。その後、中央大学に進み、昭和11年法学部卒。大学院で憲法、行政学を研究し、15年には講師に、20年には教授となる。
昭和24年、衆議院に初当選以来、約40年間に渡り、国政の場にあって戦後日本の復興と郷土発展に尽くし、その功績により春の叙勲で勲一等旭日大褒賞を受賞した。47年47年の田中内閣成立で文部、49年の三木内閣で法務大臣を務め、51年に発覚したロッキード事件では、真相解明のため検察への政治介入を許さず、稲葉法相の名を全国に高めた。その後も政界の浄化、世界連邦の建設を政治目標に天下のご意見番として政治活動に情熱を傾けた。
21年に政界入りを決意し、24年に3回目の挑戦で初当選する。多芸な趣味人としても知られ、剣道七段、囲碁六段、無頼の釣り好きで「日本の水をきれいにする会」の会長も務めた。また熱烈な相撲ファンで、昭和48年以来日本相撲協会の横綱審議委員を務め、相撲界の発展に貢献した。
平成4年(1992)8月15日、肺炎による心不全の為逝去。故山に還り、村上市宝光寺に眠る。
【岩付寅之助】(1894−1945)
明治27年(1894)村上本町飯野に村上藩士岩付持熙(村上裁八代判事)の二男として出生。同45年、県立村上中卒業。在学中から秀才の誉れ高く、卒業時県知事より褒状授与、英和解熟訳大辞典を賞与される。仙台二高、東北帝大数学科、大正7年大学院と進み、数学科演習補助、同8年、山口高校教授、同14年数学及び教授法研究のため、イギリス留学。昭和2年(1927)帰朝。論文「質点運動ノアル幾何学的性質及運動方程式ノ縮小可能性ニツイテ」(東北帝大)で理学博士、高師の教授、同19年部長、20年(1945)8月6日、原爆により死亡。享年52歳。
【磐舟柵】
日本書紀の大化4年(648)の条に「磐舟の柵をつくりて蝦夷に備う。遂に越と信濃の民をえらびて始めて柵戸(きのへ)を置く」とあり、大和朝廷の勢力が北に及ぶ拠点と考えられる。瀬波温泉の南、浦田山から明神山の一帯が柵跡と推定される。
【大和田愛羅】(1886−1962)
明治19年(1886)3月24日、両親虎太郎、カツの長男として誕生。父親が軍医であった関係で出生場所は東京都牛込区宮比町であった。しかし、虎太郎はわずか27歳で病に倒れ、母親カツが愛羅を含め三人の姉妹を女手一つで育て上げた。祖父清晴は村上藩士で明治維新後新潟に移転。当時の日本基督新潟仮教会(病院と伝道所からなる)で医師、兼牧師をしていたので、母親カツも幼い子供達を連れ、新潟に戻った。新潟中学校を明治38年に卒業、軍人を希望したが視力の点で断念。明治42年に東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)を卒業している。卒業後はプロの音楽家ではなく、教育音楽を目指して東京府女子師範学校、東京府第二高等女学校など歴任する傍ら、同志と女性四部のホワイト合唱団を結成し、音楽の普及に尽瘁する。昭和36年冬、脳梗塞で倒れ、約半年余の闘病の末、昭和37年(1962)8月11日没。享年77歳。塩町の安泰寺に祖父、両親とともに眠りについてる。愛羅の作曲集には百余曲が載っているが、校歌などのほか、親しまれている作品に「夕やけ小やけ」「汽車」などが入っている。村上駅前には村上市郷友会によって「汽車」の歌詞を刻んだ碑が建てられた。
【小野為郎】(1898−1951)
本名は為吉。明治31年(1898)3月26日、市内細工町に小野橘堂(本名末吉)の長男として生まれる。父について彫刻を学ぶ。図案・意匠など自ら研究し多くの作品が各種観覧会に入選入賞する。村上の伝統工芸である堆朱堆黒の固有の様式を尊重した上でただ旧習を墨守するのは新道の本意ではないと考え、新しい図案模様を創作し、改良発展を図った。また版画にも興味を持ち、独創的な作品を制作する。更に武芸にも興味を有し、同人と相謀って白蘭詩社を創立し、機関誌「白蘭」を発行した。昭和26年(1951)4月16日没。享年53歳。
【小和田毅夫】(1898−1993)
東宮妃雅子様の祖父。明治31年上越市で、父金吉、母竹野の長男として出生。
小和田家は、村上藩士の子孫である。先祖は町同心や下横目という任に就いている。これらの職は、藩の枢機に参画するような要職ではない。しかし、幕末維新期の当主道助はなかなかの人物であったらしく、郡方懸りというやや上級の職に抜擢され、その任を全うしたといわれている。
明治維新後、早々に道助の三男金吉の代に小和田家は村上を離れ、金吉は喧嘩の税務署に務める。雅子妃殿下の曽祖父である。
明治33年、金吉急死。母竹野が働きながら毅夫を育てる。毅夫は教員養成系の最高学府広島高師を卒業。隣県、新潟県立の旧制中、旧制高女の教員、校長を経て終戦後、旧制高田中、高田高の校長として10数年在職。漢詩を愛する名物校長として慕われた。昭和33年退職。45年まで高田市教育委員長を三期務める。このように教職にあって、各地に転勤、住所も何度か変わったが、その都度転居先を村上鮭産育養所「育英会」に届け出ており、その誠実さが伺える。
今なお本籍地は村上本町380番地(現・村上市飯野)である。平成5年(1993)10月19日没。享年95歳。新潟市泉性寺に眠る。