村上大辞典

あ行 か行 さ行 た行 な行
は行 ま行 や行 ら行 わ行




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【松尾芭蕉】
芭蕉は元禄2年(1689)3月26日、曽良を伴って「耳に触れていまだ見ぬ境」を訪ねるため、江戸から奥羽の地へと旅立った。これがあの「奥の細道」のたびで半年にも及ぶ長旅になるが、村上へも6月26日(今の暦で8月13日)に立ち寄り、2泊3日過ごした。当時村上は越後一の大藩で榊原侯十五万石の城下町だった。人口も九千三百人あまりだったというから大変な賑わいを見せていたことだろう。今でも芭蕉と曽良の止まった旅籠屋や参詣したお寺が残り、俳句を刻んだ石碑も静かにたたずんでいる。
【松平直矩】(1642−95)
徳川家康の五男直基の子。慶安元年(1648)父の遺領を継ぎ、播磨十五万石の城主となり、翌年越後国村上に移されたが明暦三年(1657)一月に焼失した江戸城本丸の作事手伝いを勤め、万治二年(1659)再び江戸城修築の工にあたり、懇請して再び姫路に復帰した。しかるに元和元年(1681)直矩の宗家のいわゆる越後騒動に連坐して閉門謹慎を命ぜられ、ついで豊後国日田七万石に減封された。貞享三年(1686)出羽国山形の堀田正仲が陸奥国福島に転ずるや直矩は山形十万石に移され、さらに元禄5年(1692)七月白河城主として十五万石を与えられた。
【間部詮房】(1666−1720)
寛文六年、甲府藩士西田喜兵衛清定の長男として生まれる。母は阿部忠秋の家臣小河次郎右衛門の女。貞享元年(1684)に甲府藩主徳川綱豊の小性として召出されて切米百五十俵十人扶持(翌二年二百五十俵)を賜り、間部右京(のち宮内)と称した。その後綱豊の寵愛をうけて、同四年両番頭格、元禄元年(1688)奏者役格、同二年用人並、同十二年用人と昇進し、俸禄もたび重なる加増で、同十六年には千五百俵となった。宝永元年(1704)家宣(綱豊改名)が将軍綱吉の養嗣子となって西ノ丸になるとこれに供奉して幕臣となり従五位下越前守に叙任、書院番頭格西ノ丸奥番頭に任命された。ついで翌二年には西ノ丸側衆に転じ、千五百石加増、三年正月には若年寄格となり、相模国鎌倉・大住・愛甲・高座四郡のうちにおいて七千石を加増されて一万石の大名に取り立てられた。さらに同年十二月には従四位下に叙せられて老中次席に昇格し、四年七月摂津国西成・和泉国大鳥、同和泉三郡のうちにおいて一万五を加増された。そして六年正月に綱吉が没して家宣が将軍家を相続すると、同年四月侍従に任ぜられて摂津国西成・下総国海上両郡のうちにおいて再び一万石を加増され、老中格に昇進した。さらに、翌年五月には上野国群馬・片岡・碓氷三郡のうちにおいて二万石を加増されて高崎城主となり、すべて五万石を領することになった。こうして詮房は、陪臣から五万石の大名にまで出世したが、同時に将軍家宣・家継の側用人として大きな権限を握った。すなわち、加判・月番の開始時期や、勝手掛・金銀改鋳・御内書・御朱印御用の担当者任命など、老中・若年寄に関する人事案件のほとんどを将軍に代わって伝達しており、ことに家継の時代には、将軍が幼少だったこともあって、老中・若年寄の任命についてさえも、詮房が直接申渡していたのである。又侍講新井白石が政策顧問的な役割を果たしたが、詮房にも老中の職務を補佐する奥右筆から、松野匡邦・堀内貞良・跡部蕃実・中川清治の四名が御用方右筆として付属し、詮房は彼らの補佐を受けて様々な政策を立案しかかる案件を老中に伝達していた。このように詮房は、正徳期の老中政治を主導したが、享保元年(1716)将軍家継が没して吉宗が将軍に就任すると、側用人を解職されて失脚した。そして、翌二年には領地も越後国村上に移され、同五年七月十六日不遇のうちに同地で没した。55歳。芳名は享浄院柔誉?心煥霊。村上の浄念寺に葬られた。
【三面川】
この三面川は昔から鮭の上ってくる川として名高く、平安時代から朝廷の貢物とされていたほどだった。歴代城主もこれを藩の財源の一助にあてていた。また「種川の制」と呼ばれる世界で最初の鮭の人工ふ化が行われた川としても有名である。
【三好愛吉】
明治3年(1870)村上に生まれる。「村上学校」に学び、同28年東京帝国大学(現東京大学)を卒業。 その後、新発田及び長野尋常中学校長を歴任し、同33年第二高等学校教授校長となり、同校の質実剛健の校風を樹立した。 大正4年(1915)「皇子傅育官長」に選ばれ、故秩父宮、高松宮の傅育の任にあたった。両宮様の傅育にあたっては、何よりものびのびとお育ちになるよう特に気を配られたという。秩父宮、高松宮両殿下のお人柄はそうした配慮によるものかも知れない。 大正8年(1919)病気の為急逝し、故山に帰り、市内羽黒町の宝光寺に眠る。