村上大辞典

あ行 か行 さ行 た行 な行
は行 ま行 や行 ら行 わ行
【臥牛山】

臥牛山は、お城山とも呼ばれ村上城(別名舞鶴城)の築かれた平山で村上市の中心にある。標高135mの孤山で面積約24ha。石英粗面岩からなる四方勾配の急な斜面で遠くから見るとちょうど牛が臥したような形をしている所からこのような名がつけられている。山の上には苔むした城跡、石垣と数本の老松が往時を忍ばせている。
【川上俊彦としつね(1861−1935)
文久元年(1861)村上本町飯野に村上藩士150石 川上泉太郎の長男として出生。藩校「克従館」に学び、明治17年(1884)に東京外語大ロシア語科卒。外務省に入省、初め公使館書記としてロシアに勤務した。以後外地勤務が続く。日露戦争時、旅順開城後、乃木大将とステッセル将軍が「水師宮」で会見した際の通訳である。その時の様子は、明治神宮外苑の絵画館の壁画に残されている。明治42年、総領事としてハルビンに在勤、伊藤博文に随従して駅頭で創傷を受けた。その後、北樺太株式会社代表取締役、会長、昭和2年日魯漁業株式会社社長、相談役、いずれも外交問題の絡む会社の運営にあたった。昭和10年(1935)没。享年75歳。東京多摩墓地に眠る。
なお、皇太子と雅子様の橋渡し(お任い)をされたうちの一人である建設省研究所所長竹山雄太郎氏は川上俊彦の娘の子供にあたる。
【観音寺】
真言宗のお寺で寺伝では、元和4年(1618)に宗海上人が開かれたとされている。仏海上人の即身仏(明治36年3月20日入寂で日本最後とされる)が奉安されていることでも有名。境内には仏海上人頌徳碑、他に句碑、鏡塚などがある。
【耕雲寺】(1857−1922)
耕雲寺は、応永元年(1394)に傑堂能勝禅師が開かれたお寺で、傑堂の師の梅山聞本禅師を開祖としている。能勝は、楠正儀の次に生まれ、名は正能という方だと考えられる。能勝は、応永34年8月7日に73歳で耕雲寺でなくなられたが、その間に寺を離れたことがなく、宗門の学問に打ち込み、立派な弟子を育てた。
耕雲寺は末寺が80、孫寺以下を合わせると800にも及ぶという曹洞宗寺院の名刹で、徳川時代は十万石の大名と同じ格式を持ち、代々村上藩主から150石の寺領が寄進されていた。
明治19年12月16日に火災のため全伽藍を焼失、わずかに残った鐘楼が今は山門として往時の名残を残している。この建物は、元禄15年(1702)の建立で、市内では羽黒神社の神明宮に次ぐ古い建物である。
【近藤虎五郎】(1857−1922)
我が国で、工学博士の称号を得た最初の人。村上藩士(二人扶持三両)近藤金弥の長男として慶応元年(1857)6月村上市飯野で出生。小学校・新潟学校(新潟師範前身)等級大学法理学部、後に工科大学特待生。明治20年9月帝国大学工科大土木工学科卒業。常に主席を通したという。明治11年9月明治天皇北越御巡行の折、特に学術優秀ということで、目録を賜っている。これは全く異例の事とされている。
私費で欧米諸国へ留学、専ら土木工学を研究、内務省技師に任ぜられ、地方土木事業、特に上下水道、港湾工事の発達普及に尽力。府県市町村の大工事の調整や指導を受けてないものは皆無といわれている。一方傍ら工科大学の講師・教授として前後24年、後進の養成指導にあたっている。また各省の委嘱を受けて数多くの中央の委員に挙げられる。