岩船大祭をこよなく愛する皆さん、こんにちは。そして日本中の祭り好きの皆さん、こんにちは。
これから繰り広げられるお話は、岩船を代表する祭り男、四方末太郎(よもすえたろう)先生による一大祭り絵巻でございます。
長い文章が続き、なかなか大変かとは存じますが、そこは祭り好きの皆さんのこと、頑張って読破下さいますようお願い申し上げます。
~岩船大祭を10倍楽しむ方法~ 四方末太郎 著
~磐舟柵を治り、以て蝦夷に備う~ (いわふねのきをつくり、もってえぞにそなう)
大化4年(648年)、朝廷の命を受けた阿部比羅夫(あべのひらふ)が越・信濃の民を選び、蝦夷に対する最前線基地 「磐舟柵」を築いた、と「古事記」に並ぶ我が国最古の書物「日本書紀」(720年成立)は伝えている。私たちの住む、新潟県村上市「岩船」地区の歴史は大変古く、「磐舟柵」が築かれる前すでに石の小祠が 祀られていたと伝えられる。柵が作られてより1300年を経て、今なお住民に篤く信仰される「石船(いわふね)神社」の、原初の形である。
村上市の中心部、村上地区が城下町として発達したのに対し、市の南西部に 位置する岩船地区は日本海に面する港町で、古くより漁業・海運業を主力に、北前船ルートの拠点として、また南北に通じる出羽街道の要衝として栄えた。村上市を取り囲む2町4ヶ村の郡名にこの町の名が冠され、岩船郡と呼ばれるように、古来、地域経済の中心的存在であった。
現在、岩船の町の背後には、魚沼産コシヒカリとともにコメ王国新潟を支える、岩船産コシヒカリを育む美田が広がるが、この沃地は近 世まで岩船潟(別名 琵琶潟)と呼ばれる入江であった。古い時代には荒川の本流が注ぎこむ大きな沼地であったのを、堆積が進むにつれ営々と水田に作り上げてきたのである。海と潟の境、入江の出入り口の集落として岩船は発生し、現在に至っている。
岩船という地名の由来は、大きく2通りの説がある。町の住民に広く知られているのは「昔、 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)という神様が、磐樟(いわくす)の舟に乗って、この浜にお着きになられた」ので岩船と呼ばれるようになった、という伝説である。 饒速日命は、古代大和王朝の大豪族「物部氏」の祖先神であるとされ、天津 国(あまつくに=神々の住む天上国)より天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内の国に降り立ったとされる神である。町のはずれ、港を見守るように、小高い丘(明神山)の上に鎮座する石船神社は、この饒速日命を祀った神社である。
町に伝えられる伝説には続きがあって、「この神様が一夜の宿を求めたが、町の衆は鮭の鮨しを作るのに忙しく皆断った。ある一軒の家 が、今お産が始まるところだがかまわなければということで、この神様を家に泊めた。そのため一般に神事においてはお産を忌むが、岩船 ではお産と祭礼が重なってもかまわない。」というのである。
市内在住の歴史研究家 長谷川勲先生は、全国に何ヶ所もある岩船(岩舟)という地名について、実際にそれぞれの現地に赴き調査をな されている。その結果、それらの土地の大半では船の形をした岩や山があり、それが地元住民の信仰の対象とされ、地名の由来になってい ると発表されている。
上古より、巨岩や大木には神が宿ると信じられていた。前述の饒速日命が降臨したと伝えられる、河内国河上哮ヶ峯(たけるがみね=生 駒山の一部で現在の大阪府交野市)には、命が乗ってこられた天磐船であるとされる、幅・高さともに12メートルという船形の巨岩をご 神体とする磐船神社があり、今なお物部氏の末裔の村人によって祭祀されている。長谷川先生は、石船神社のある明神山が海上より見ると 巨大な船の形をした岩山であることを発見し、これこそがこの岩船における地名の由来であるとされている。
はるかな昔より、日本海を北上する船乗りたちにとって、越後一宮 弥彦神社の ある弥彦山を過ぎると、次の目標は石船神社のある明神山であったことは想像に難くない。海に漕ぎ出そうかとする、巨大な岩の船の舳先 に、船乗りたちは、航海の安全を護る神の姿を求めたのであろう。そして、岩船潟という天然の良港にたどりついた 物部の一族は、山の形からこの土地を「いわふね」と呼んでいた先住民たちに、 自分たちの祖先神の伝説を説くことによって、外来者である自身の立場を有利にしようと考えたのではないだろうか。この新潟県の北の片 隅の、小さな町の地名の由来の2つの説には、そんな古代のロマンをかきたてられるのである。
927年に成立した延喜式の神名帳という書物には、当時の全国の主なる神社3132座が記録されている。現在では所在不明の社も多 いが、現存する神社は式内社と呼ばれ、由緒正しい神社として崇敬されている。越後国では56座が採録されており、石船神社は磐舟郡8 座の筆頭に記されている。
大同2年(807年)北陸道観察使、秋篠朝臣安人が下向のおり、京都貴船町より貴船明神を勧請して石船神社に合祀し、社殿を建立し ている。このため中世においては貴船大明神と号した。町の人たちが石船神社を「明神さま」と呼び、神社のある丘を「明神山」、神社の 前を流れる石川に架かる橋を「明神橋」と呼ぶのはその時代の名残である。
正徳4年(1714年)に石船明神に複合し、宣旨により正一位を授与され社殿を造営しているが、中世以降、平林城主、ついで歴代の 村上藩主の崇敬篤く、神領の寄進や社殿の修復が度々なされている。明治5年には、加茂町(現加茂市)の青海神社とともに「両社ハ当管 下 式内社内に於いて最確然且社殿地景共 他社の比類ニ無御坐候」として、県下最初の県社に列せられている。社殿の裏手に広がる椿林 の社叢は昭和33年、県文化財(天然記念物)に、例祭は昭和63年、県無形民族文化財に指定されている。
祭神は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、罔象女命(ミズハメノミコト)、タカオカミノカミ、クラオカミノカミ、の四柱の神々であ る。罔象女命以下の三柱の祭神は貴船明神の神々であり、水を司るといわれる。これは神社境内において、 清水が湧出することから、祀られたのではないかと考えられている。
その清水は、 参道の石段を登る中ほどにあり、神泉として今も大切にされている。あるいは、饒速日命が本来太陽神(転じて火の神)であったことから、 水の神を合祀することにより、陰陽を調和させたのではと推察する意見もある。石船(いわのふね)から貴船(きのふね)へと変化した対 照の妙とともに、興味をそそられる意見である。
...カンカン ...カンカン
10月19日の早朝、正確には日付が変わって間もない真夜中に、張り詰めた空気を震わせるような、祈りの鼓動が流れ出す。
岩船大祭の始まりを告げる先太鼓の鉦の音である。
逸る心をなだめすかして寝床についたのだが、浅い眠りの中、 岩船の血はかすかな音を聞き逃さない。
てれつくでんでんずっでんでん てれつくでんでんずっでんでん
単純で郷愁に満ちた先太鼓のリズムは、最後の二つの音に気合を込めて刻んでいく。 甲高い鉦の音が先に聞こえ、近づくにつれて乾いた太鼓の音が響いてくる。
てれつくでんでんずっでんでん てれつくでんでんずっでんでん
それぞれの願をかけ、これからの丸一昼夜を先太鼓に奉仕する一行は、柳を削った、 思いの外細くて長いバチをしならせて、神の通る道を祓い浄めて進んでいく。
てれつくでんでんずっでんでん てれつくでんでんずっでんでん
枕元で一段と大きく響いた太鼓は、やがてゆっくりと遠ざかり、鉦の音の余韻を残しながら夜の静寂に溶けていく。
...カンカン ...カンカン
先太鼓の衆を耳で送り、夜明けとともに曳き出す、おしゃぎりの巡行に備えて、 あとわずかの時間をまどろんでいく。
石船神社の例祭、岩船大祭は10月19日に「本祭り」を迎える。お御輿と氏子各町自慢の 「おしゃぎり」と呼ばれる、絢爛華麗な祭礼屋台9台が岩船の町を練り歩き、鄙 とはいえ古い歴史に彩られた港町の、勇壮な祭りを今に伝えている。 先太鼓は屋台巡行の先導役をつとめるのだが、前夜は巡行ルートを3度に亘って回り、道を祓い浄めるのである。
岩船の祭りがいつの頃から始まったかは明らかではないが、中世平林城に盤踞し、岩船を領していた色部氏の「色部氏年中行事」(1558~1570)には、「九月拾九日、大明神の、お的の次第の事」「すまい(相撲)のこと」として、石船神社の祭礼についての記載が見られる。明治初期に政府の太陽暦採用により、期日を一月遅れの10月19日に改め、現在に至っている。
残暑も峠を越え、田の刈取が始まって、稲わらの匂いが秋風に運ばれて来る頃、祭りの話題が頻繁に、町の人の口にのぼるようになる。 とりわけ責任のある立場の人たち、氏子会や若連中の役員、各町内の当宿(とうやど)などでは、お祭りの一月以上も前から気忙しい日々 を送ることになる。
当宿というのは屋台の当番の家で、祭礼期間中の屋台管理の責任を負い、かつては曳き回しにかかる経費を全額負担していたので、主達 (おもだつ)と呼ばれる裕福な町内役員が持ち回りでつとめていた。現在は経費を町内で拠出するので、昔ほどではないとはいえ重責であ ることに変わりはなく、また中には、一代に一度ともいわれる当宿の記念にと、数十万円もする飾り物を寄贈する人もいたりする。今も当 宿は晴れの大役であり、名誉なのである。
10月9日には「足揃い」といって、おしゃぎりに乗る子供たちが集まり、お囃子の稽古が始まる。笛を担当する「笛吹き」の大人が指導にあたり、子供たち に伝統のお囃子を教えている。祭りまでの間、夜毎、町のそこかしこで笛・太鼓の音が響き、いやが上にも祭り気分が盛り上がる。
祭り直前の日曜日には「屋台出し」といって、石船神社敷地内にある格納庫からおしゃぎりを出し、各町内に移動する。若い衆が幟(のぼり)の竿を立てたり、天気の良い日には家々で障子の張り替えをしたり、いたる所で祭礼準備が見受けられ、町は祭り一色に染められる。
岩船では世代によって、祭りの役割が分担されている。中学2年生までの子供は乗り子として、お囃子方を務める。屋台の曳行は、中学3年生から42歳までの男子で組織する若連中が受け持つ。若連中の年令を過ぎると屋台の警護役となり、氏子会や町内の役員を務める人は、祭礼全体の運営に携わ ることになる。氏子総代、各町内区長、若連中代表、他、各種団体の代表から成る「岩船まつり運営委員会」が祭礼全体を統括し、神事に ついては氏子総代が、屋台曳行については、各若連中の代表から成る「岩船まつり若連中運営委員会」が責任者となって運営している。
祭りの数日前、各町内では、若連中の全員が集まり「法被」分けが行なわれ、それぞれの役に応じた法被が配られる。無役の者は、前を重ねて帯を結ぶ「平法被」と呼ばれる法被だが、 役付きの者が着る「役法被」は羽織形となっていて、年の若いうちは、早く出世して役法被を着たいと憧れるのだ。
特に「会長」(あるいは「頭取」、または「組長」と、町内により呼び方は異なる)の法被を着ることを、岩船の男なら一度は夢見るの だが、誰でもがその職に就けるわけではない。一同に認められた者だけが会長に なり、その法被に袖を通すことが許される。逆に、法被を着ることで伝統の威厳をまとい、人間が見違えたようになることもある。法被が 人を選び、人を造り、男たちはその法被を先輩から後進へと、伝統とともに大切に引き継いでいる。
17日の夜には、当宿に乗り子の子供たちが集まり、お囃子が披露される。親戚・知人から届けられた祝い酒が並んだ床の間の前に、おしゃぎりに乗せられる「飾り物」や、おしゃぎりの背面を飾る「見送り」が据えられ、ご近所の人たちが集まって見守る中、当宿の家の方 に、稽古の成果を見ていただくのである。帰りには子供たちに、当宿からお駄賃がふるまわれ、子供たちは翌日からの本番を楽しみに家路 につく。
18日は「宵祭り」である。家々では紅白の幕を張り、家紋の入った門提灯を掲げてお祭りを祝う。午後からは、各町内ごとにおしゃぎりの試し曳きが行なわれる。朝から当宿の前におしゃぎりが置かれ、飾り物を乗せ、見送りを飾り、四方の柱に幣束を立て、〆縄をめぐら して、おしゃぎりは正装に威儀を正すのである。神主の祝詞があげられてお祓いを受けると、おしゃぎりは曳き出されるのを待つばかりになる。
小中学校は曜日にかかわらず、18日は半ドン、19日は休みになる。子供たちは昼食もそこそこに、親にせがんで祭り小袖を着せてもらい、カランコロンと慣れない駒下駄を足に響かせておしゃぎりへと急ぎ、曳き出しの時刻を待ちかねるように太鼓を打ち始める。太鼓の音に誘われて、大人たちが三々五々集まって来て、やがて紋付を着込んだ笛吹きがおしゃぎりに乗り込むと、今度は笛に合わせて「呼び太鼓」を打つ。曳き手が揃うと、若連中の会長の号令でいよいよおしゃぎりが曳き出される。お囃子は「通り囃子」を奏で、曳き手の力を合わせ る、「やさのーお」の掛け声がかかり、ギイッという車輪の軋みとともに、おしゃぎりが動きだす。この日は曳き手は普段着で、本祭りには曳き綱に触わることのできない女性や、年配の人も参加して和気あいあいと町内を回るのである。
「盆正月には帰らなくても、お祭りには帰って来る。」と岩船では言われる。都会で働く息子や、遠方に嫁いだ娘が孫を連れて集まって、 にぎやかな夕餉を囲んだ後、皆で連れ立って石船神社へ「宵宮参り」へと出かける。礼服であったり、スーツであったり、和服であったり、 子供たちは祭り小袖を着せてもらったり、お宮参りには正装で行くのが岩船の習わしである。道すがら通りを眺めると、家々の門提灯に灯 が入り、町は幻想的な姿を浮かび上がらせる。岩船では「木瓜(もっこう)」を家紋にする家が多いが、他にも「剣片喰」「橘」「桔梗」 「抱茗荷」「並び矢」「二引両」「藤丸」など良く知られる家紋に混じり、名前がわからないような珍しい紋も見られる。
神社では、参道の両側に並ぶ各町の献灯の穏やかな灯りの中で、御札・幣束をいただいて帰る人と、これから参拝に向かう人の波が絶え 間なく続き、あちらこちらで知った顔同士のあいさつが交わされる。「お晩でございます」「おめでとうございます」「明日はよろしくお 願いします」......明日はいよいよ「本祭り」である。
10月19日、本祭りの朝、漁師たちは自分の船の舳先にごちそうを並べ、神酒をささげて柏手を打つ。海上安全と大漁を祈る、「船迎え」 と呼ばれる行事である。海とともに泣き、笑い、生きてきた人々の素朴で謙虚な信仰の姿である。
その頃、先太鼓が浄めた通りに、法被姿の若い衆が姿を現し、一人また一人と当宿に集まって来る。前日の曳き回しのあとで、いったん 当宿の座敷に納めた飾り物を再びおしゃぎりの上台に飾り、鉦や太鼓を据え付ける。待ちかねたように子供たちが乗り込み、呼び太鼓を打 ち始めると、太鼓の音に急かされて、寝坊した者もあわてて駆け付けてくる。揃いの法被に豆絞りの鉢巻きをしめ、白い股引、白足袋に雪 駄(せった)がけといういでたちの曳き手や、礼服を着用し、水引を結んだ青竹を手にした警護の大人たちが集まり、当宿で出掛けの祝い酒が振る舞われた後、おしゃぎりは 「帰り囃子」を打ちながら石船神社に向かって曳き出される。警護の人々は、青竹をついてゆっくりとおしゃぎりの後につき従う。9台のおしゃぎりは、神社に詰める時刻が5分間隔で決められているため、それぞれ の当宿から続々と神社へ向かう。
大通りを進み、明神橋の手前の角で向きを変えると、おしゃぎりはほぼ正面に 神社の鳥居を見ることになる。明神橋を走って渡るおしゃぎりを見るために、境内や橋のたもとに人垣ができている。前を行くおしゃぎり が橋を渡り終えるまで、次の町内は通りの角でおしゃぎりを停めて力をためる。その間も帰り囃子は休むことなく太鼓を打ち、子供たちは 元気にハヤし続ける。引き綱を道いっぱいに広げ、綱の両側にびっしりと並んでジリジリと逸る若い衆を、綱の中の会長がしばし押さえ付ける。
前のおしゃぎりが神社に詰めるのを見届けて、会長から檄が飛ぶ。
「ぃやさぁのぉーお よいさ よいさ」
男たちが叫ぶように掛け声をかけ、「ギイィッ」車輪が悲鳴をあげておしゃぎりが走り出し、子供たちは声を一段と張り上げてハヤす。
「よいさっ よいさっ ぃやさぁのぉーおっ よいさっ よいさっ」
何度も掛け声がかけ直され、そのたびに若い衆がハネ踊り、見物人や他町の若連中に見せつけるように、前に後に右に左に、引き綱が鋼の棒になるほど、男たちは威勢よく煽りながらおしゃぎりを曳く。岩船祭りは、男ぶりを見せる祭りなのである。
神社に詰めた岸見寺(がんげんじ=町名)のおしゃぎりから、岩船祭りのシンボル「お船様」(明神丸)が下ろされて、岸見寺の若連中 の肩に担がれる。同じく横新町のおしゃぎりから下ろされた「御神馬」を伴い、浜の衆の歌う 木遣り唄に揺られながら長い石段を社殿へと登っていく。
社殿の前に置かれた「お御輿」に「お船様」と「御神馬」が並べられると、神主によって、厳かに「御魂遷し(みたまうつし)」の神事 が執り行われる。年に一度のこの日、岩船の神々は社殿内陣よりお出ましになり、人々の待つ町へと向かう。神事が済むと、玉槍が供奉す るお御輿も加わって、石段を下りてくる。一行が猿田彦命(さるたひこのみこと) を模したと思われる装束に身を包んだ、先太鼓に導かれて山を下りるさまは、 日本神話の天孫降臨もかくやと思われるような、神々しい光景である。
石段を下りきると、お御輿は石船神社地内の招魂社に設けられた「(第一)お旅所」にお入りになられ、お船様と御神馬は再びそれぞれ のおしゃぎりに飾られる。絶え間なく打たれる先太鼓が、お船様の曳き出しの近いことを教え、人々の注目が集まる中、「こんこんづきづ ん こんづきづん」と、岩船の者なら誰でも口ずさむことのできる、岸見寺のお囃子の笛の音が流れ出す。三張並べられた太鼓に向かう、 一番太鼓の子供たちは、上げる手下げる手も鮮やかに揃えて太鼓を打ち、いよいよ岸見寺のおしゃぎりが曳き出されて、祭礼行列巡行の幕 が開く。
ソーランヨー ヨー ヨー ヤーナー
ハーリャーリャー ハーリャーリャー
ハーリャ ヨーイトセー
おしゃぎりをお旅所のお御輿に向けて、岸見寺の若い衆が「本木遣り」を歌い始めると、おしゃぎりのお囃子も先太鼓も、打つ手を止め て鳴りをひそめる。曳き綱の中、紋付羽織姿で手に幣束をかざした「木遣り上げ」 の衆が、お御輿様に寿ぎの木遣りを奉納する。
げにや目出度き神代の昔(げにやめでたき かみよのむかし)
蜻蛉洲に宮始まりて(あきつしまに みやはじまりて)
縁起詳しく尋ねて聞けば(えんぎくわしく たずねてきけば)
言うも愚かや辱なくも(いうもおろかや かたじけなくも)
天の水罔の御神とかや(あまのみずはの おんかみとかや)
天の磐船波間に浮かべ(あまのいわふね なみまにうかべ)
藍の艫綱 桂の舵に(らんのともづな かつらのかじに)
瑠璃の帆柱 珊瑚の櫓櫂(るりのほばしら さんごのろかい)
綾や錦の帆を捲き上げて(あややにしきの ほをまきあげて)
これの渚へ漕ぎ寄せ給い(これのなぎさへ こぎよせたまい)
四方の景色を御眺められ(よものけしきを おんながめられ)
並びあらざるこれ一なりと(ならびあらざる これいちなりと)
ここに鎮まりましますとかや(ここにしずまり ましますとかや)
今に残りし一つの岩も(いまにのこりし ひとつのいわも)
世世に朽ちせぬ御船の形(よよにくちせぬ みふねのかたち)
すぐに栄いし所の名をも(すぐにさかいし ところのなをも)
動ぎ揺るがぬ岩船町の(ゆるぎゆるがぬ いわふねまちの)
四方のかまどの末広がりて(よものかまどの すえひろがりて)
四海波風治まる御世は(しかいなみかぜ おさまるみよは)
枝を鳴らさぬ竹も年栄え(えだをならさぬ たけもとしばえ)
あたりに響き渡る高音の美声と、磨き上げられた独特の節回し、10年に1人しか出ないとさえ言われる「木遣り上げ」の歌う唄に、取 り囲む若い衆の太い声が重なって、木遣り唄は聴く人々の心に沁み渡る。
「はーよー そーらんよー」木遣りの最後の声の終わらぬ内に、お囃子と先太鼓がまた打ち鳴らされ、「よーっ」子供たちのハヤす声が 響く中を、若い衆の掛け声とともにおしゃぎりは向きを変える。いくつもの音が重なりあって、その音に合わせて絵が動きだす。岩船祭り の醍醐味が、凝縮したような一瞬を堪能できる場面である。
♪~
一番始めは一ノ宮
二また日光中禅寺
三また佐倉の惣五郎
四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社
六つ村々鎮守様
七つは成田のお不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の高野山
十で東京心願時
あれこれ心願懸けたのに
浪子の病は治らぬと
轟々轟々行く汽車は
武男と浪子の行き別れ
二度と逢えない汽車の窓
早く帰って来てちょうだい
~♪
【 解 説 】
岩船大祭の呼び太鼓として親しまれているこの歌は、原曲は明治初期に流行したわらべうたである。(私が小学校の時、この歌の前半部 分が東京のわらべうたとして音楽の教科書に載っていた。NHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」の最終回で田中裕子扮する西郷隆盛の妻が、 同じメロディーを別の歌詞で歌っていた。)歌詞は数え歌になっているが、明治31~32年に国民新聞に連載された、徳富魯花の「不如 帰(ホトトギス)」によっている。
「一ノ宮」は各地の最も由緒ある神社を指す(越後一ノ宮は弥彦神社、というふうに)。地名として有名なのは愛知県一宮市で、尾張一ノ 宮 真清田(ますみだ)神社がある。日本の一ノ宮なら、三重県伊勢市にあり皇室の祖 天照大神(あまてらすのおおみかみ)を祀る伊勢 神宮であろう。しかしここでは東京で歌われたということで、武蔵の国(現在の東京都、埼玉県)一ノ宮の、埼玉県大宮市にある氷川神社 を指すと解釈したい。
「中禅寺」は栃木県日光市にある天台宗の寺で、古来山岳修業の道場として人々の崇敬を受けている。二荒山(ふたらさん)神社境内にあ り坂東三十三札所の第十八番。
「佐倉惣五郎」は江戸前期の義民。(現在の千葉県)佐倉郷の名主として、百姓のために領主の悪政を将軍に直訴して捕らえられた。死 後、口ノ明神として将門山に祀られる。
「善光寺」は長野市にある単立宗教法人。天台宗の大勧進と浄土宗の大本願とによって管理される。本尊は阿弥陀如来で、中世以降盛ん に信仰される。
「出雲大社」は島根県大社町にあり、大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る。伊勢神宮を筆頭とする天津神(あまつかみ)系に対す る、国津神(くにつかみ)系の筆頭であり、古来より大いに信仰されている。
「成田のお不動様」は成田山新勝寺。千葉県成田市にある、真言宗智山派の別格大本山。不動明王を本尊とする。
「八幡の八幡宮」は京都府八幡市の石清水(いわしみず)八幡宮。大分県の宇佐八幡宮を勧請して創建。歴代朝廷の崇敬を受ける。源氏 の氏神としても有名。
「高野山」は和歌山県の高野山金剛峰寺のこと。真言宗の総本山で、開祖空海が自らの入定地として建立。
「心願時」は、所在不明。実在しないのかもしれない。
前出の「不如帰」は、数多くの演劇・映画の原作となっている当時の大ヒットドラマである。この歌も、すでにあったメロディーを使っ た劇中歌か、誰かの作った替え歌が、大衆に定着したものと思われる。浪子の悲運を織り込んで替え歌を完成させるために、架空の「東京 心願時」を作り出したのではないだろうか。いつどのように岩船に伝えられたのか、なぜお祭りの歌として今に残るのか、幻の心願時とと もに、すべての謎は歴史の霧の中である。
文責 竹内 新一
家々では酒肴を用意しておしゃぎりが来るのを待つ。行列が家の前まで来ると、おしゃぎりについてきた人たち、親戚の小父さんや、ご 主人の知人、「お宅の娘さんの同級生です」と名乗る若者や、顔も知らない赤の他人やらが、「おめでとうございます」と型通りのあいさ つを口に、入れ代わり立ち代わりにやってきて、またたく間に大騒ぎが始まる。
玄関先で盃一杯のお酒をいただきお礼を述べて辞する人、ずかずかと座敷に上がり込んでビールをねだる奴、トイレを借りにきてそのま ま先程のビール飲みと意気投合して落ち着いてしまう輩など、一人来ては二人帰り、三人帰っては四人入って来て、おしゃぎりが全部通り 過ぎるまでのしばらくの間、いや、行列のはるか後方からおしゃぎりの影を追い掛けて、それでも知り合いの家を欠かさずに回る律義者も いたりして、かなり長い時間、目の回るようなてんてこまいが繰り広げられるのである。
座敷の隅にちょこんと座った大年寄が的の外れた指図をしたり、小さな子供が理由もわからずはしゃぎ回る中で、女衆は忙しく立ち回っ て、この客たちをもてなしてくれる。前夜はおそくまで下ごしらえをし、当日の朝早くからごちそうを作り、それで足りなければオードブ ルや寿司を取り寄せて、やれ熱燗だ、やれ冷や酒だ、やれビールだ水割りだと、わがままを並べ立てる男衆をこなしていく。「一年の稼ぎ を十三で割って、一月分は祭りに使う」と言われるが、あながち大袈裟とは言い切れないし、「岩船祭りは無礼講」と言われるが、参加資 格を手に入れた者にとっては正にその通りなのである。
町々や村々にそれぞれの祭りがある中で、近郷近在の人たちからも「岩船の衆は(祭りに対する)熱の入れ方が違う」と言われ、町の人 もこの祭りを何よりも自慢の種にしているのだが、歴史の古さやおしゃぎりの豪華さもさることながら、実は、家々でのこの大盤振舞いこ そが岩船の真骨頂であり、岩船「大祭」たる所以なのである。「嫁に来てから何十年、おしゃぎりなんて満足に見たことがない」と愚痴を こぼし、「祭りなんかなければいい」とつぶやく女たちこそが、岩船大祭の本当の主役である。「おらごの父ちゃんもせがれも祭り馬鹿で、 毎晩のように家をあけて」だとか、「何十人も客が来て、酒もご馳走もいっぱい、はやってしもて」などという文句の中には、男とお祭り を支えているのは自分たちだ、という自信と自慢が込められているのである。
通りを進むおしゃぎりに、家々からご祝儀が上げられる。自分の町内の他にも、近い親族がいる町内や、知人が役員を務める町内へとご 祝儀をはずむ。全部の町内に祝儀を上げる家も少なくない。ご祝儀をいただいた家におしゃぎりを向けて、岸見寺は「木遣り」を、惣新町 と下浜町は「もみだし」を、他の屋台は「通り囃子」を披露して礼を返す。おしゃぎりも人も、右に左に大きく揺れながら、酒に酔い、祭 り囃子に酔い、人の情にしたたかに酔っぱらって、祭りの列は進んで行く。
神社を出発してから行列は、下大町、上大町、上町(の一部)、横新町、中新町、縦新町とめぐり、お昼すぎ、縦新町のはずれに設けら れた「(第二)お旅所」にお御輿と御神馬が到着して、神々はしばし休憩をする。おしゃぎりの曳き手や乗り子も、昼食の「ままあがり」 となる。「お旅所」での神事が済むと、お御輿は岸見寺屋台の次へと、行列の中での位置を変える。この縦新町の折り返しや上町の折り返 しで、今来た道を戻るとき、お囃子が「帰り囃子」に変わり、若い衆がもみ合いながら、おしゃぎりは勢い良く走って戻って行くのである。 昼休みをはさんで新田町から上町に入る頃には、早くも秋の日が暮れて、おしゃぎりには屋台提灯が取り付けられ、灯が入れられる。昼の 光の中とはまた違った風情を漂わせて、お祭りはいよいよ佳境へと入っていく。上町を過ぎ、昼前に通った横新町を二度目は走り抜けて、 上浜町にさしかかると夕食の「ままあがり」となる。
上浜町から下浜町へと進むと、露天の立ち並ぶ道とおしゃぎりの巡行路が交差して、にぎやかさが一段と増す。だが、この頃には曳き手 はめっきりと人数が減ってしまっている。朝からの酒に酔い潰れてしまった者や、酩酊状態でおしゃぎりのことも忘れ、上がり込んだ家で 長々と腰を据えてしまう者が続出して、わずか十人足らずの曳き手でおしゃぎりを動かすという有様になってしまう。
あちらこちらで酔っぱらい同士のいざこざが起き、些細な事件が人の口を伝わる内に尾鰭がついて話が大きくなって、もめごとを恐れる 若連中の幹部たちが、事の真相を探るために右往左往する。おしゃぎりの中では疲れ果てた子供が柱に顔をつけたまま寝てしまい、法被姿 の高校生が慣れない酒に路地の暗がりで背中を丸め、酒の勢いを借りて誕生した急造アベックがいちゃついて、祭りがナマな表情を垣間見 せる。いつの日か思い出に変わる、苦労や、困惑や、疲労、頭痛、恋心、そして満足感など、さまざまな思いをそれぞれに胸に刻みながら、 お祭りの夜は更けていく。
下浜町から岸見寺、地蔵町の狭い通りへとおしゃぎりが進んで行く。一年間を凝縮した長いお祭りの一日が、終わりへと近づいていく。
地蔵町の裏通り、石川沿いの道を屋台が行く。「浜回り」と呼ばれ、一度しか通らない道にもかかわらず、岩船祭りの禁を破って「帰り囃 子」で行く。かつては本当に砂地であったため筵(むしろ)を敷いて、他町の衆も手伝い、テンポの早い「帰り囃子」で力を合わせて一台 ずつ屋台を曳き上げたという。道が舗装されてから何十年も経ち、そんな昔の苦労話を語る人も少なくなったが、お囃子だけが当時の名残 をとどめている。
しゃぎりがやっと通るほど狭い、地蔵町の家込みの中を進むと、正念場の「地蔵様の角」が待ち受ける。狭いT字路を直角に曲がらなけ ればならないのである。ふと気がつくと、一時よりも曳き手の数が揃っている。酔い潰れていた者も、どこぞの家で祭りを肴に長々と話し 込んでいた者も、頃合いを計ったかのように戻ってきて、「俺がいなくて、この角が曲がれるものか」と言わんばかりの顔で、おしゃぎり の周りを固めている。
狭い場所に見物の人がひしめき合い、見せ場を前に、おしゃぎりの中では「笛吹き」が寝ぼけ眼の子供たちを叱咤する。弾かれたように 子供たちがハヤし声を張り上げて、おしゃぎりが角へと進みだすと、途端に上から右から左から「ピピーッ」「ピピーッ」、危険を報せる ホイッスルが鳴り響く。「どこだーっ」会長の怒鳴る声に、「こっちだー」「ここだー」上下左右から怒鳴り声が返ってくる。雨障子が電 柱の防犯灯に、唐破風が家のひさしに、心棒の左右の先が電柱に、ブロック塀に、触れんばかりになっている。「浜に切れ」「山に切れ」 「よしこのまま真っすぐだ」目を血走らせて男たちが叫び、おしゃぎりが一尺も進まない内に、またホイッスルの悲鳴が降り注ぐ。しゃぎ りの後ずさりは恥だとして、他町の笑い者になるまいと、警護の大人が口を出そうとするが、「若い者にまかせておけ」と、他の大人がで しゃばり者を怒鳴りつける。わずかに角度を変えてはわずかに進み、その度に怒号とホイッスルの音が飛び交い、正面の電柱に手木をこするようにしながら向きを変えていく。
「よし、かわした」、内側の心棒の先に付いている者が大声で叫ぶと、しゃぎりが大きく回って地蔵様の角を抜ける。見物からも曳き手か らも歓声があがり、拍手が湧き起こる。いつの間にか、手に手に弓張提灯を持った曳き手が大勢戻り集まり、子供たちに合わせて「帰り」 をハヤしている。地蔵町から大通りへ出ると、後は「帰り屋台」となってそれぞれの町内へと帰って行くだけである。後ろから、けたたま しいホイッスルの音が聞こえてくる。次のおしゃぎりが地蔵様の角へとさしかかっている。
岸見寺と横新町のおしゃぎりは、巡行を終えると町内へは帰らずに神社に向かう。「お船様」「お御輿」「御神馬」が、石船神社へとお 帰りになる。
船が山に登るという、他には例を見ない行事が民俗学的に貴重であるとされ、県の無形民俗文化財の指定を受ける根拠にもなった岩船大 祭のクライマックス、「とも山」神事の始まりである。先太鼓の衆がなまった腕に意地を入れなおし、つぶれた手のマメを気にとめずに太 鼓を打って先導し、お船様を担ぐ岸見寺の若い衆も、御神馬を担ぐ横新町の若い衆も、酔った足に力を込めて「また一年、また一年」の思 いを胸に、石段を一段、また一段と登って行く。
ソーランイェーサン めでたのヤァーエー
(ヤストコエー ヨーイヤナー)
めでたの大明神だニ ヨーイトナー
(ソーラーイヤー ハリャリャリャリャ ホイ ヨーイトコー ヨーイトコナー)
島の始まり 島の始まり淡路の島だ
国の始まり 国の始まり大和の国だ
柱は 柱は白金黄金のへみをこくませたまいて
ここは穂山の ここは穂山の大和の錦
やがたを見て来い やがたを見て来い 祝いめでたの明神丸だ
明神丸は 明神丸は面舵取り舵効き合わせて
明神丸は 明神丸はともやまかけた
明神丸は 明神丸は盤木に乗せかけ
明神丸は 明神丸は盤木に乗せた
ソーラーイヤー ハリャリャリャリャ ホイ ヨーイトコー ヨーイトコナー
町内へと帰る他のおしゃぎりのお囃子が、潮風に乗ってかすかに聞こえる神の杜に、枯らした声を奮い立たせて浜の男たちが歌う「どっ とこ木遣り」が響き渡る
。「このー坂ーのぼーれーばー、このー坂ーのぼーれーばー」万感を込めた声の波に乗り、参道に並ぶ献灯にその 姿を浮かび上がらせて、お船様が山へと登る。
「船魂(ふなだま)祭り」とも異称される岩船大祭のこの日、海に生きる者ばかりでなく、悠久の歴史の中でこの町に生きた、数えきれ ない者たちの思いを集めて、取るに足りない小さな港町が強烈に光り輝くのである。今この町に生きる者たちが、神に、自然に、祖先に、 謙虚な祈りを捧げる中、岩船大祭の幕が静かに降りて行く。
朝とは反対の方向から、明神橋の手前の大通りの角に出たおしゃぎりは、その場で神社に向かい最後のあいさつをすると、それぞれの町 内へと帰って行く。お祭りの終幕を惜しむかのように、テンポを落としてゆっくりと「帰り囃子」を吹く笛の音に合わせて、若い衆がしゃ がれた声でハヤしながら、おしゃぎりの帰りを待つ当宿へと向かう。
神社から二番目に遠い上町のおしゃぎりが町内に入り、新田町との境で向きを変えて、太次平の坂をのぼると、一番遠い惣新町のおしゃ ぎりが、曳き綱に溢れるほどの曳き手と、その曳き手より多いくらいの町の人を後ろに従えて大通りを進んできて、二台のおしゃぎりは、 あんやの角で出会う。惣新町と上町の「帰り」は、よく似た旋律で、「あんりょう、あんりょう」とハヤす、合いの手も同じである。二台 のおしゃぎりが、手木と手木とがぶつかるほど接近させて停まると、一方がお囃子を休んで、交互に「帰り囃子」を披露し、両町の衆が声 を合わせて「あんりょう、あんりょう」の大合唱を繰り返す。惣新町と上町にとって、お祭りのフィナーレを飾る「あんりょうがけ」であ る。お互いを讃え合い、満足感を分かち合って「あんりょう、あんりょう」が夜の町に響き渡る。「どうもありがとうございました」「あ りがとうございました」、若連中の幹部があいさつを交わして別れを告げ、当宿への残りわずかの道を、それぞれの「あんりょう、あんり ょう」をハヤしていく。
丸一日をかけて当宿に帰り着いたおしゃぎりで、全員の注目が集まる中、最後の最後の「帰り囃子」が演奏される。「よし終わりだ」、 笛を操る手を止めて笛吹きが告げると、歯をくいしばって最後までつとめあげた子供たちに、称賛の拍手が湧き起こる。子供たちにとって、 祭りでの役割をしっかりと果たした経験は、いい点数をとったテストなどよりずっと大事な、生涯の誇りになる。おしゃぎりの片付けが済 むと、当宿で味噌汁が振る舞われる。心尽くしの味噌汁が、疲れ果てた身体に沁み渡り、心までも温もって、ひとしきり今日一日のことが らを話題にしたあと、皆で厚く礼を述べて当宿を辞去する。
疲れた足をひきずって家に帰り着くと、汗を洗い流すだけで、後は倒れこむように寝床に入る。起きだしてから、もう24時間が経過し ようとしている。数時間後には、おしゃぎりの格納を始め、多くの後片付けが待ち構えている。すぐに寝つこうと思うのだが、目を閉じる と、もう動いているおしゃぎりは一台もないはずなのに、どこからか祭り囃子が聞こえてくる。木遣り唄、車輪の軋む音、アスファルトを 摺る雪駄の音、駒下駄の音、男たちの掛け声、女たちの嬌声、そして先太鼓の音。思考を止めた頭の中に祭りの音が渦巻いて、この一日の さまざまな光景が、脈路もなく浮かんでは消えていく。毎年のことだが、ありふれた日常に戻るまで、また後遺症に悩むことになると、暗 闇の中、ひとり苦笑いを浮かべる。
平成9年の岩船大祭を見たスイス人ジャーナリスト、J・F・ゲリー氏は、11月6日号の週刊新潮に、見開き2ページに大写しにした 先太鼓の写真を掲載し、その写真の下に次のような記事を寄せている。
「(前略)新潟県村上市、岩船の祭りは歴史が非常に古い。観光客が殆ど行かない、仲間の行事で、街全体が盛り上がる素晴らしい祭り だ。悪魔よけのため、重要な役割を果たす、この先太鼓の、お呪(まじな)いに違いない場面に釘付けにされた。表の世界から完全に消え たマジックは、岩船のような所でまだ生きているのを見て安心した。日本はまだ完全にすてたものじゃない。」
だけれども、経済的効率が最優先されるこの国の、マジックが完全に消えた表の世界を支配する、合理化という名前の荒波は、確実にそ して速度を早めて、岩船祭りにも押し寄せている。荒波に呑み込まれてお祭りが消えてしまうのか、マジックの錨(いかり)を捨てて波に 漂うのか、もちろん錨を放すことなく、この荒波を乗り越える術を見つけなければならないのだが、舳先に立ち目をこらして捜す船頭にも、 次の澪標はなかなか見つけられない。