下渡山 238m
(下渡大橋より)
毎年越年登山が行われ、焚き火で新年を迎えている。
                   NO.3「下渡山」238m 村上市
 村上に初めて来たとき、三面川に面して三角形に突っ立っているこの山が印象的だった。名前すら知らなかったこの山だったが、「下渡山」と聞いてからは、もっと登りたくなったものだ。
 この山への初登山も日曜日の午後登山だったような気がする。一人で橋を渡り、集落に入って登山口を探した記憶がある。地元の小学生は遠足で登る山だそうだが、お城山から比べれば不遇な山かも知れなかった。名前すら人に知られず、ずっとそこに生きている。そんな存在がとても健気に思われた。
 一気に登れば30分ほどで登れる山だった。山頂近くになると登山道が緩やかになり、いつの間にかすかっと展望が開け、ただっ広い山頂に到着する。川から吹き上げてくる風に、流れる汗も心地よい。山登りは日々精進である。山から少し離れると、次に登るときは精神的にも体力的にも難儀するものだった。だから、このくらいの山と仲良くして、暇なときには散策するとちょうどよいリフレッシュになる。この山頂から見下ろす朝日村や村上市の景色は絶品だった。山高きが故に尊からずである。地元の小さな山に、名山が隠されていることもあるのだった。
私は次の機会に山仲間のOさんとNさんご夫妻を誘ってここで大宴会を催した。一升瓶を担ぐにも苦にはならない山なのである。飲むほどに、酔うほどに、山賊の宴は盛り上がり、いつの間にかとっぷりと日が暮れてしまった。Nさんの奥さんがしきりに下山をすすめるのだが、ヤマタノオロチ2匹はがんとして動かなかった。私がそこで見たものは、村上市の夜景だった。ヘッドライトが国道を列をなして連なっていた。帰りは酔っ払ったOさんが登山道で転がり、木の枝にぶらさがり、やっとのことで下山した。「下渡山」の名前の由来が少しは分かった気がした。
                       NO.4「臥牛山」135m村上市
村上に住むようになってすぐにこの山に登った。ジグザクの登山道を辿れば、20分ほどで山頂にたどり着く。石垣が当時の面影を忍ばせられる。江戸時代にここに城があった頃、武士たちが登城した道が登山道になっている。この山頂からの村上市の眺めも絶品だった。町並みを見下ろすことの爽快感。人間の生活をこうして俯瞰することで何か達観した境地を感じるのは私だけだろうか。
日常生活においては、自分を日常とはかけ離れた違った世界に置くことも大切な養生訓だと思っている。自分に囚われすぎてどつぼにはまるよりも、違った視点から自分の生活を見つめなおすことができるからだ。失われた自分を取り戻す場所として、自分自身の原点に帰る場所として、こうした身近な自然は私たちにとっては大切な場所となる。お城山は私にとってそんな存在となっていた。
長男が三歳のとき、子守さんの家へ迎えに行った帰り、あんまりお城山が美しかったので、長男を連れて夕方に登ることにした。低山なのにブナがあった。登山道の途中にはベンチがあった。子どもの手を引き山を登っていると、散歩のお婆さんに励まされた。山頂に立つと私たちと、もう一人若者が立っていた。声をかけたら、素晴らしい笑顔の青年で、モンゴルからの留学生だと知った。彼は妻子を故郷に残し、日本語を学ぶために村上に来て、地元のタイル工場で働いていた。一緒に山を降りる間、彼の身の上話を聴いていた。モンゴルでは馬に乗り、相撲をとって男たちは男を鍛えているのだそうだ。清廉潔白、凛として華がある。私はモンゴルの侍に会った気がした。
後日、私は山居町の我が家から歩き、お城山を登り、下渡山を登り、歩いて我が家へ帰るという計画を企てて実行した。お城山の山頂に彼がいた。同じ留学生の青年と一緒だった。私の計画を告げると、自分たちもついて行くと言う。私たち三人はそこから歩いて下渡山に登った。彼らは日本で言えば東大出のエリートだった。今はタイル貼りの仕事で汗を流しているが、故郷に帰ったら国のための仕事につく人たちだった。真面目で、真摯で、紳士だった。彼らは祖国モンゴルをこよなく愛していた。中国に支配された苦しい祖国の現状を語っていた。そして、帰ったら国を作るのだと希望に燃えていた。私は伴に山を下りながら、彼らの生き様が羨ましかった。
時には山は、自分を原点に帰してくれるだけでなく、自分の存在を問う出会いも用意してくれるのだった。お城山を想うと、彼ボーユンさんの純粋な笑顔が思い出される。

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