重要文化財
若林家住宅

 若林家の家系

 若林家の家禄

 文化財の指定

 建築年代と後世の修理・改造

 文化財の保存修理工事







若林家の家系

 若林家には、先祖の行状を伝える古文書も断片的なものが多く、家系に関してもっともよくまとまった文書は大正九年に書かれた『若林家系譜』になります。
 これは、旧村上藩氏族であり、郷土史家でもあった新藤養素氏が、若林家八代目当主賚蔵氏の求めに応じて各所に散在する資料を基に編纂したもので、客観的な立場から調査しているため記載内容はかなり正確なものと思われます。
 それによると、若林家は寛永十二年(1635)に没した善右衛門某を元祖としています。善右衛門某は内藤家の分家内藤石見守信広の家老で、本国甲州武田家士とあることから甲斐武田氏の遺臣と思われます。その孫が初代善右衛門とされています。
 その安定が延宝二年(1674)内藤家に召抱えられ、以後六代佐市郎の代に明治維新を迎えるまで代々物頭などの役を務めました。内藤家中では、中級上位の家柄と考えられ、二代善右衛門定次の時、主君の移封に伴って村上にきました。
 なお、天明七年(1787)の『越後村上分限帳』には、筆頭家老から十二番目、者頭の項に下記のような記述があります。職制上十八人の足軽を指揮していたようです。



  一 百五拾石                  若林七太夫
    一 金三両弐分弐人扶持           小頭野崎文吉
    一 金参拾七両参拾四人扶持 内弐両弐分取六人   足軽拾七人

 また、昭和六年に編纂された『村上郷土史』所収の村上藩士一覧表(明治初年の村上士族名寄帳などをもとに作成したもの)では、足軽まで含めて総数731人の家臣のうち、上から五十四番目に記されています。




若林家の家禄

         残   
弐  七    九五五 
拾  拾  内拾俵拾 内
俵  弐  訳弐  三
    俵    俵  俵
亥 迄亥
の 一九
暮 ケ月
三 月よ
條 六り      催
米 俵子     促
代 つ八   渡出歩
金 つ月   高来上


『系譜』などによれば初代善右衛門は二百石を給されており、二代善右衛門定次が百五十石に減ぜられてから(養子であったための減給という)は幕末まで変わりませんでしたが、この百五十石とは「知行百五十石」のことで実収入はずっと少ないものでした。
文久三年十月の『亥秋御家中物成割合□□』は藩士の禄高と収入内訳を記したもので、百五十石の項に六代佐市郎を含む十二人の氏名 をあげ、左のように記しています。
百五十石(三百七十五俵)で名目収入百五十俵であるから、年貢率四割で勘定しています。しかし、そのうち五十三俵は歩上として藩が天引きし、さらに五俵は江戸表への援助のために削られて実収入は九十二俵しかありませんでした。そのうち二十俵は年末に代金で受取り、残りの七十二俵は毎月六俵づつ米で受け取っていました。天明七年の分限帳は、末尾に「分掛り割合」として実収入の一覧を載せていますが、ここでは九十六俵としています。(催促出来がひかれていません)
なお、役職に就くと役高が与えられており、前出の『村上郷土史』は者頭役を「知役二百石」と記しています。



文化財の指定

 若林家住宅は、「部屋割が細かく土間が狭いことなど間取りに侍屋敷らしい特色があらわれており、一部に改造がみられますが、この種の建物の乏しい東日本における中級武家屋敷の遺構として価値が認められる」として昭和52年に国の重要文化財の指定を受けました。建物は東西に棟を持つ居室部と、南北に棟を持つ座敷部からなるL字型の曲屋で、屋根は寄棟造、茅葺です。建築年代は明らかではありませんが、およそ1800年代前後ではないかと推測されます。


建築年代と後世の修理・改造

 若林家住宅には、建設年代を示す棟札や普請記録がなく、さらに村上藩の武士住宅に関する公式記録も残っていないため、今のところ正確な建設年代は不明です。
建設年代を推定する資料としては、次のようなものがあります。

  1. 古い襖の下貼に、宝暦六年(1769)、天明六年(1786)、天明七年(1787)の反古紙が使われていました。
  2. 若林家は、明和六年(1769)に火災に遭っています。
  3. 建設後、万延元年(1860)、明治三年、同十二年、同四十二年に修理と改造が行われています。
  4. 若林家住宅に使用されていた当初材(柱)の年輪調査を行った結果、その柱の基となる木材が伐採されたのは、ほぼ1802年頃と推定されます。
 そのほか、当初部材の風蝕が大きく、明治部材の2〜3倍とみられたことなどから、若林家住宅が建設されたのは18世紀の末ごろと推測されています。強いて年号をあげるとすれば安永・天明・寛政年間頃が有力となります。

文化財の保存修理工事

 若林家は、大正十四年に七代当主安静氏が亡くなってからは若林家の直系が住むことはなく、親戚知人が何度か入れ替わりながら使ってきました。昭和三十年代になると若林家の親戚である故稲葉修衆議院議員が自宅兼事務所として入居し、重要文化財に指定されるまで使われたため、一部の建具や造作以外は全く形式が変更されませんでした。なお、故稲葉修衆議院議員の母親は八代当主賚蔵氏の妹で、稲葉家へ嫁がれました。
 しかし、建物本体は経年による破損が甚だしく、主要な軸部に傾斜・弛緩・腐朽・虫害がみられたため、昭和六十一年から六十三年にかけて一旦全部解体して保存修理工事を行いました。この保存修理工事にあたっては、解体にあたっての詳細な調査によって、建築当初の形式技法並びに後世の修理内容がほぼ明らかになったので、文化庁の許可を得て可能な限り建築当初の姿に復原して組み立てました。組み立てにあたっては、単に建築当初の外観を復するだけでなく、細部の仕様についても古い技法を踏襲するように努めました。ただし、旧来の構造・技法に弱点があって、同じ方法で組み立てても修理前と同様の破損を繰り返す可能性が高い箇所については適当な補強を行われました。
 工事は村上市の直轄工事として昭和六十一年十一月一日から24ヶ月の予定で着手しました。総事業費は計画変更に伴う増額を含めて1億450万円でした。
 現在の若林家住宅は保存修理工事を終え、ほぼ建築当初の姿に復原されたものです。