【村上大祭の起源】7月6、7日

【本庄繁長と西奈弥神社】

 羽黒神社は、正しくは西奈弥羽黒神社といいます。

江戸時代には西奈弥羽黒三社大権現と称していました。

西奈弥羽黒三社大権現は、天正16年(1586)に当地の本庄繁長が、出羽庄内の最上氏や東膳寺を討つ時、戦勝をその地の羽黒山に祈願し、めでたく庄内地方を平定し手中に収めたので、凱旋の際に、御分霊を勧請しこの地の総鎮守として、いまの庄内町にまつったと伝えられています。

村上大祭の先導を務める「荒馬14騎」はその凱旋した姿を模したものといわれています。その後、羽黒神社は臥牛山の麓に社殿が移されました。


【堀直竒と羽黒神社の祭礼】

 元和4年(1618)堀丹後守直竒が村上城主となって城下町の整備と城郭の修築を大規模に行うのに際し、総鎮守を城から見下ろすのは恐れ多いとして、社殿を現在地に造営したのが今の羽黒神社の場所です。

寛永10年(1633)6月7日に新社殿への遷宮が行われましたが、そのときに村上の一番古い町の「大町」の人たちが、お城から大八車を借り、それに太鼓をつけて景気よく打ち鳴らし、町中を練り回ったのが羽黒神社の祭礼のはじまりです。

なお、羽黒神社の祭神は、奈津比売大神・倉稲魂大神・月夜見大神の三神ですから、御神輿も三基あるわけです。



【村上大祭のむかしむかし】

 お祭りといえば、町方と武士との、年に一度の交流のときでもあったのです。

今のように屋台の順番が決まったのは明治以降のことで江戸時代には、順番もコースも今とはずいぶん異なっていたといいます。

 羽黒神社を出発した屋台は『飯野御門』(現村上税務署周辺)をくぐって場内に入り、そこで 各町の演奏者達は、お殿様の前でにぎやかにはやしを奏しました。

そのとき、最も素晴らしく奏した町内から順に、その年の巡行順位が決められたといいます。しかし、明治維新によってこのしきたりも途絶え、最後の年の評定順位が今に継続して守られているのです。

 飯野門を入った屋台は、三之町を通り、桜の馬場(現東北電力周辺)から『下渡門』をくぐり、新町−堀片−杉原−庚申堂へと練り歩き、身分制度の厳しかった当時において、城主や武士に町方の者達がお見せするというお祭りでもありました。

また、町方が武士に祭りを見せるという表向きとは別に、日頃のうっぷんをはらす機会でもあったようで、喧嘩になると、城内に屋台をおっぽり投げて帰ってしまい、武士達がおおいに弱ったという記録も残されています。




ハッピと屋台

ハッピは屋台の曳き手の制服で、背中に背負った印は、各町内の団結をあらわします。

村上っ子は子どものうちから屋台に乗り成長してそろいのハッピに身を包んで、屋台を曳くことで仲間意識が育まれていきます。

一番  久保多町 八番  細 工 町 十五番  庄 内 町
二番  大   町 九番  安 良 町 十六番  片  町
三番  寺   町 十番  小 国 町 十七番 上 片 町
四番 大 工 町 十一番  鍛冶町 十八番 加 賀 町
五番  小   町 十二番  肴  町 十九番  泉  町
六番  塩   町 十三番長 井 町
七番  上   町 十四番 羽 黒 町