岩船大祭

岩船大祭について
   ...カンカン    ...カンカン
 
 10月19日の早朝、正確には日付が変わって間もない真夜中に、張り詰めた空気を震わせるような、祈りの鼓動が流れ出す。
岩船大祭の始まりを告げる先太鼓の鉦の音である。
逸る心をなだめすかして寝床についたのだが、浅い眠りの中、
岩船の血はかすかな音を聞き逃さない。
 てれつくでんでんずっでんでん   てれつくでんでんずっでんでん
単純で郷愁に満ちた先太鼓のリズムは、最後の二つの音に気合を込めて刻んでいく。
甲高い鉦の音が先に聞こえ、近づくにつれて乾いた太鼓の音が響いてくる。
 てれつくでんでんずっでんでん   てれつくでんでんずっでんでん
それぞれの願をかけ、これからの丸一昼夜を先太鼓に奉仕する一行は、柳を削った、  
思いの外細くて長いバチをしならせて、神の通る道を祓い浄めて進んでいく。
 てれつくでんでんずっでんでん   てれつくでんでんずっでんでん
枕元で一段と大きく響いた太鼓は、やがてゆっくりと遠ざかり、鉦の音の余韻を残しながら夜の静寂に溶けていく。
   ...カンカン    ...カンカン
先太鼓の衆を耳で送り、夜明けとともに曳き出す、おしゃぎりの巡行に備えて、  
あとわずかの時間をまどろんでいく。
岸見寺のおしゃぎり
 石船神社の例祭、岩船大祭は10月19日に「本祭り」を迎える。お御輿と氏子各町自慢の 「おしゃぎり」と呼ばれる、絢爛華麗な祭礼屋台9台が岩船の町を練り歩き、鄙 とはいえ古い歴史に彩られた港町の、勇壮な祭りを今に伝えている。 先太鼓は屋台巡行の先導役をつとめるのだが、前夜は巡行ルートを3度に亘って回り、道を祓い浄めるのである。
 岩船の祭りがいつの頃から始まったかは明らかではないが、中世平林城に盤踞し、岩船を領していた色部氏の「色部氏年中行事」(15 58~1570)には、「九月拾九日、大明神の、お的の次第の事」「すまい(相撲)のこと」として、石船神社の祭礼についての記載が 見られる。明治初期に政府の太陽暦採用により、期日を一月遅れの10月19日に改 め、現在に至っている。

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 残暑も峠を越え、田の刈取が始まって、稲わらの匂いが秋風に運ばれて来る頃、祭りの話題が頻繁に、町の人の口にのぼるようになる。 とりわけ責任のある立場の人たち、氏子会や若連中の役員、各町内の当宿(とうやど)などでは、お祭りの一月以上も前から気忙しい日々 を送ることになる。
 当宿というのは屋台の当番の家で、祭礼期間中の屋台管理の責任を負い、かつては曳き回しにかかる経費を全額負担していたので、主達 (おもだつ)と呼ばれる裕福な町内役員が持ち回りでつとめていた。現在は経費を町内で拠出するので、昔ほどではないとはいえ重責であ ることに変わりはなく、また中には、一代に一度ともいわれる当宿の記念にと、数十万円もする飾り物を寄贈する人もいたりする。今も当 宿は晴れの大役であり、名誉なのである。
 10月9日には「足揃い」といって、おしゃぎりに乗る子供たちが集まり、お囃子の稽古が始まる。笛を担当する「笛吹き」の大人が指導にあたり、子供たち に伝統のお囃子を教えている。祭りまでの間、夜毎、町のそこかしこで笛・太鼓の音が響き、いやが上にも祭り気分が盛り上がる。
 祭り直前の日曜日には「屋台出し」といって、石船神社敷地内にある格納庫からおしゃぎりを出し、各町内に移動する。若い衆が幟(の ぼり)の竿を立てたり、天気の良い日には家々で障子の張り替えをしたり、いたる所で祭礼準備が見受けられ、町は祭り一色に染められる。
 岩船では世代によって、祭りの役割が分担されている。中学2年生までの子供は乗り子として、お囃子方を務める。屋台の曳行は、中学3年生から42歳までの男 子で組織する若連中が受け持つ。若連中の年令を過ぎると屋台の警護役となり、氏子会や町内の役員を務める人は、祭礼全体の運営に携わ ることになる。氏子総代、各町内区長、若連中代表、他、各種団体の代表から成る「岩船まつり運営委員会」が祭礼全体を統括し、神事に ついては氏子総代が、屋台曳行については、各若連中の代表から成る「岩船まつり若連中運営委員会」が責任者となって運営している。

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 祭りの数日前、各町内では、若連中の全員が集まり「法被分け」が行なわれ、それぞれの役に応じた法被が配られる。無役の者は、前を重ねて帯を結ぶ「平法被」と呼ばれる法被だが、 役付きの者が着る「役法被」は羽織形となっていて、年の若いうちは、早く出世して役法被を着たいと憧れるのだ。
 特に「会長」(あるいは「頭取」、または「組長」と、町内により呼び方は異なる)の法被を着ることを、岩船の男なら一度は夢見るの だが、誰でもがその職に就けるわけではない。一同に認められた者だけが会長に なり、その法被に袖を通すことが許される。逆に、法被を着ることで伝統の威厳をまとい、人間が見違えたようになることもある。法被が 人を選び、人を造り、男たちはその法被を先輩から後進へと、伝統とともに大切に引き継いでいる。
 17日の夜には、当宿に乗り子の子供たちが集まり、お囃子が披露される。親戚・知人から届けられた祝い酒が並んだ床の間の前に、お しゃぎりに乗せられる「飾り物」や、おしゃぎりの背面を飾る「見送り」が据えられ、ご近所の人たちが集まって見守る中、当宿の家の方 に、稽古の成果を見ていただくのである。帰りには子供たちに、当宿からお駄賃がふるまわれ、子供たちは翌日からの本番を楽しみに家路 につく。

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 18日は「宵祭り」である。家々では紅白の幕を張り、家紋の入った門提灯を掲げてお祭りを祝う。午後からは、各町内ごとにおしゃぎ りの試し曳きが行なわれる。朝から当宿の前におしゃぎりが置かれ、飾り物を乗せ、見送りを飾り、四方の柱に幣束を立て、〆縄をめぐら して、おしゃぎりは正装に威儀を正すのである。神主の祝詞があげられてお祓いを受けると、おしゃぎりは曳き出されるのを待つばかりに なる。
 小中学校は曜日にかかわらず、18日は半ドン、19日は休みになる。子供たちは昼食もそこそこに、親にせがんで祭り小袖を着せてもらい、カランコロンと慣れない駒下駄を足に響かせておしゃぎ りへと急ぎ、曳き出しの時刻を待ちかねるように太鼓を打ち始める。太鼓の音に誘われて、大人たちが三々五々集まって来て、やがて紋付 を着込んだ笛吹きがおしゃぎりに乗り込むと、今度は笛に合わせて「呼び太鼓」を打つ。曳き手が揃うと、若連中の会長の号令でいよいよおしゃぎりが曳き出される。お囃子は「通り囃子」を奏で、曳き手の力を合わせ る、「やさのーお」の掛け声がかかり、ギイッという車輪の軋みとともに、おしゃぎりが動きだす。この日は曳き手は普段着で、本祭りに は曳き綱に触わることのできない女性や、年配の人も参加して和気あいあいと町内を回るのである。
 「盆正月には帰らなくても、お祭りには帰って来る。」と岩船では言われる。都会で働く息子や、遠方に嫁いだ娘が孫を連れて集まって、 にぎやかな夕餉を囲んだ後、皆で連れ立って石船神社へ「宵宮参り」へと出かける。礼服であったり、スーツであったり、和服であったり、 子供たちは祭り小袖を着せてもらったり、お宮参りには正装で行くのが岩船の習わしである。道すがら通りを眺めると、家々の門提灯に灯 が入り、町は幻想的な姿を浮かび上がらせる。岩船では「木瓜(もっこう)」を家紋にする家が多いが、他にも「剣片喰」「橘」「桔梗」 「抱茗荷」「並び矢」「二引両」「藤丸」など良く知られる家紋に混じり、名前がわからないような珍しい紋も見られる。
 神社では、参道の両側に並ぶ各町の献灯の穏やかな灯りの中で、御札・幣束をいただいて帰る人と、これから参拝に向かう人の波が絶え 間なく続き、あちらこちらで知った顔同士のあいさつが交わされる。「お晩でございます」「おめでとうございます」「明日はよろしくお 願いします」......明日はいよいよ「本祭り」である。

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 10月19日、本祭りの朝、漁師たちは自分の船の舳先にごちそうを並べ、神酒をささげて柏手を打つ。海上安全と大漁を祈る、「船迎え」 と呼ばれる行事である。海とともに泣き、笑い、生きてきた人々の素朴で謙虚な信仰の姿である。
 その頃、先太鼓が浄めた通りに、法被姿の若い衆が姿を現し、一人また一人と当宿に集まって来る。前日の曳き回しのあとで、いったん 当宿の座敷に納めた飾り物を再びおしゃぎりの上台に飾り、鉦や太鼓を据え付ける。待ちかねたように子供たちが乗り込み、呼び太鼓を打 ち始めると、太鼓の音に急かされて、寝坊した者もあわてて駆け付けてくる。揃いの法被に豆絞りの鉢巻きをしめ、白い股引、白足袋に雪 駄(せった)がけといういでたちの曳き手や、礼服を着用し、水引を結んだ青竹 を手にした警護の大人たちが集まり、当宿で出掛けの祝い酒が振る舞われた後、おしゃぎりは 「帰り囃子」を打ちながら石船神社に向かって曳き出される。警護の人々は、青竹をついてゆっくりとおしゃぎりの後につき従う。9 台のおしゃぎりは、神社に詰める時刻が5分間隔で決められているため、それぞれ の当宿から続々と神社へ向かう。
 大通りを進み、明神橋の手前の角で向きを変えると、おしゃぎりはほぼ正面に 神社の鳥居を見ることになる。明神橋を走って渡るおしゃぎりを見るために、境内や橋のたもとに人垣ができている。前を行くおしゃぎり が橋を渡り終えるまで、次の町内は通りの角でおしゃぎりを停めて力をためる。その間も帰り囃子は休むことなく太鼓を打ち、子供たちは 元気にハヤし続ける。引き綱を道いっぱいに広げ、綱の両側にびっしりと並んでジリジリと逸る若い衆を、綱の中の会長がしばし押さえ付 ける。
 前のおしゃぎりが神社に詰めるのを見届けて、会長から檄が飛ぶ。
「ぃやさぁのぉーお  よいさ  よいさ」
 男たちが叫ぶように掛け声をかけ、「ギイィッ」車輪が悲鳴をあげておしゃぎりが走り出し、子供たちは声を一段と張り上げてハヤす。
「よいさっ よいさっ  ぃやさぁのぉーおっ  よいさっ よいさっ」
 何度も掛け声がかけ直され、そのたびに若い衆がハネ踊り、見物人や他町の若連中に見せつけるように、前に後に右に左に、引き綱が鋼 の棒になるほど、男たちは威勢よく煽りながらおしゃぎりを曳く。岩船祭りは、男ぶりを見せる祭りなのである。

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 神社に詰めた岸見寺(がんげんじ=町名)のおしゃぎりから、岩船祭りのシンボル「お船様」(明神丸)が下ろされて、岸見寺の若連中 の肩に担がれる。同じく横新町のおしゃぎりから下ろされた「御神馬」を伴い、浜の衆の歌う 木遣り唄に揺られながら長い石段を社殿へと登っていく。
 社殿の前に置かれた「お御輿」に「お船様」と「御神馬」が並べられると、神主によって、厳かに「御魂遷し(みたまうつし)」の神事 が執り行われる。年に一度のこの日、岩船の神々は社殿内陣よりお出ましになり、人々の待つ町へと向かう。神事が済むと、玉槍が供奉す るお御輿も加わって、石段を下りてくる。一行が猿田彦命(さるたひこのみこと) を模したと思われる装束に身を包んだ、先太鼓に導かれて山を下りるさまは、 日本神話の天孫降臨もかくやと思われるような、神々しい光景である。
 石段を下りきると、お御輿は石船神社地内の招魂社に設けられた「(第一)お旅所」にお入りになられ、お船様と御神馬は再びそれぞれ のおしゃぎりに飾られる。絶え間なく打たれる先太鼓が、お船様の曳き出しの近いことを教え、人々の注目が集まる中、「こんこんづきづ ん こんづきづん」と、岩船の者なら誰でも口ずさむことのできる、岸見寺のお囃子の笛の音が流れ出す。三張並べられた太鼓に向かう、 一番太鼓の子供たちは、上げる手下げる手も鮮やかに揃えて太鼓を打ち、いよいよ岸見寺のおしゃぎりが曳き出されて、祭礼行列巡行の幕 が開く。

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     ソーランヨー  ヨー  ヨー  ヤーナー
     ハーリャーリャー  ハーリャーリャー  
     ハーリャ  ヨーイトセー
 おしゃぎりをお旅所のお御輿に向けて、岸見寺の若い衆が「本木遣り」を歌い始めると、おしゃぎりのお囃子も先太鼓も、打つ手を止め て鳴りをひそめる。曳き綱の中、紋付羽織姿で手に幣束をかざした「木遣り上げ」 の衆が、お御輿様に寿ぎの木遣りを奉納する。
げにや目出度き神代の昔(げにやめでたき かみよのむかし)
蜻蛉洲に宮始まりて(あきつしまに みやはじまりて)
縁起詳しく尋ねて聞けば(えんぎくわしく たずねてきけば)
言うも愚かや辱なくも(いうもおろかや かたじけなくも)
天の水罔の御神とかや(あまのみずはの おんかみとかや)
天の磐船波間に浮かべ(あまのいわふね なみまにうかべ)
藍の艫綱 桂の舵に(らんのともづな かつらのかじに)
瑠璃の帆柱 珊瑚の櫓櫂(るりのほばしら さんごのろかい)
綾や錦の帆を捲き上げて(あややにしきの ほをまきあげて)
これの渚へ漕ぎ寄せ給い(これのなぎさへ こぎよせたまい)
四方の景色を御眺められ(よものけしきを おんながめられ)
並びあらざるこれ一なりと(ならびあらざる これいちなりと)
ここに鎮まりましますとかや(ここにしずまり ましますとかや)
今に残りし一つの岩も(いまにのこりし ひとつのいわも)
世世に朽ちせぬ御船の形(よよにくちせぬ みふねのかたち)
すぐに栄いし所の名をも(すぐにさかいし ところのなをも)
動ぎ揺るがぬ岩船町の(ゆるぎゆるがぬ いわふねまちの)
四方のかまどの末広がりて(よものかまどの すえひろがりて)
四海波風治まる御世は(しかいなみかぜ おさまるみよは)
枝を鳴らさぬ竹も年栄え(えだをならさぬ たけもとしばえ)
 あたりに響き渡る高音の美声と、磨き上げられた独特の節回し、10年に1人しか出ないとさえ言われる「木遣り上げ」の歌う唄に、取 り囲む若い衆の太い声が重なって、木遣り唄は聴く人々の心に沁み渡る。
「はーよー  そーらんよー」木遣りの最後の声の終わらぬ内に、お囃子と先太鼓がまた打ち鳴らされ、「よーっ」子供たちのハヤす声が 響く中を、若い衆の掛け声とともにおしゃぎりは向きを変える。いくつもの音が重なりあって、その音に合わせて絵が動きだす。岩船祭り の醍醐味が、凝縮したような一瞬を堪能できる場面である。

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