岩船大祭

岩船、石船神社、岩船大祭

岩船大祭をこよなく愛する皆さん、こんにちは。そして日本中の祭り好きの皆さん、こんにちは。
これから繰り広げられるお話は、岩船を代表する祭り男、四方末太郎(よもすえたろう)先生による一大祭り絵巻でございます。
長い文章が続き、なかなか大変かとは存じますが、そこは祭り好きの皆さんのこと、頑張って読破下さいますようお願い申し上げます。

~岩船大祭を10倍楽しむ方法~ 四方末太郎 著

岩船の成立と地名の由来について
~磐舟柵を治り、以て蝦夷に備う~ (いわふねのきをつくり、もってえぞにそなう)
岩舟柵の碑
 大化4年(648年)、朝廷の命を受けた阿部比羅夫(あべのひらふ)が越・信濃の民を選び、蝦夷に対する最前線基地 「磐舟柵」を築いた、と「古事記」に並ぶ我が国最古の書物「日本書紀」 (720年成立)は伝えている。私たちの住む、新潟県村上市「岩船」地区の歴史は大変古く、「磐舟柵」が築かれる前すでに石の小祠が 祀られていたと伝えられる。柵が作られてより1300年を経て、今なお住民に篤く信仰される「石船(いわふね)神社」の、原初の形で ある。
 村上市の中心部、村上地区が城下町として発達したのに対し、市の南西部に 位置する岩船地区は日本海に面する港町で、古くより漁業・海運業を主力に、北前船ルートの拠点として、また南北に通じる出羽街道の要 衝として栄えた。村上市を取り囲む2町4ヶ村の郡名にこの町の名が冠され、岩船郡と呼ばれるように、古来、地域経済の中心的存在であ った。
 現在、岩船の町の背後には、魚沼産コシヒカリとともにコメ王国新潟を支える、岩船産コシヒカリを育む美田が広がるが、この沃地は近 世まで岩船潟(別名 琵琶潟)と呼ばれる入江であった。古い時代には荒川の本流が注ぎこむ大きな沼地であったのを、堆積が進むにつれ営 々と水田に作り上げてきたのである。海と潟の境、入江の出入り口の集落として岩 船は発生し、現在に至っている。
 岩船という地名の由来は、大きく2通りの説がある。町の住民に広く知られているのは「昔、 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)という神様が、磐樟(いわくす)の舟に乗っ て、この浜にお着きになられた」ので岩船と呼ばれるようになった、という伝説である。 饒速日命は、古代大和王朝の大豪族「物部氏」の祖先神であるとされ、天津 国(あまつくに=神々の住む天上国)より天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内の国に降り立ったとされる神である。町のはずれ、港 を見守るように、小高い丘(明神山)の上に鎮座する石船神社は、この饒速日命を祀った神社である。
岩船神社
町に伝えられる伝説には続きがあって、「この神様が一夜の宿を求めたが、町の衆は鮭の鮨しを作るのに忙しく皆断った。ある一軒の家 が、今お産が始まるところだがかまわなければということで、この神様を家に泊めた。そのため一般に神事においてはお産を忌むが、岩船 ではお産と祭礼が重なってもかまわない。」というのである。
 市内在住の歴史研究家 長谷川勲先生は、全国に何ヶ所もある岩船(岩舟)という地名について、実際にそれぞれの現地に赴き調査をな されている。その結果、それらの土地の大半では船の形をした岩や山があり、それが地元住民の信仰の対象とされ、地名の由来になってい ると発表されている。
 上古より、巨岩や大木には神が宿ると信じられていた。前述の饒速日命が降臨したと伝えられる、河内国河上哮ヶ峯(たけるがみね=生 駒山の一部で現在の大阪府交野市)には、命が乗ってこられた天磐船であるとされる、幅・高さともに12メートルという船形の巨岩をご 神体とする磐船神社があり、今なお物部氏の末裔の村人によって祭祀されている。長谷川先生は、石船神社のある明神山が海上より見ると 巨大な船の形をした岩山であることを発見し、これこそがこの岩船における地名の由来であるとされている。
 はるかな昔より、日本海を北上する船乗りたちにとって、越後一宮 弥彦神社の ある弥彦山を過ぎると、次の目標は石船神社のある明神山であったことは想像に難くない。海に漕ぎ出そうかとする、巨大な岩の船の舳先 に、船乗りたちは、航海の安全を護る神の姿を求めたのであろう。そして、岩船潟という天然の良港にたどりついた 物部の一族は、山の形からこの土地を「いわふね」と呼んでいた先住民たちに、 自分たちの祖先神の伝説を説くことによって、外来者である自身の立場を有利にしようと考えたのではないだろうか。この新潟県の北の片 隅の、小さな町の地名の由来の2つの説には、そんな古代のロマンをかきたてられるのである。

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石船神社について
磐船神社の鳥居と
 927年に成立した延喜式の神名帳という書物には、当時の全国の主なる神社3132座が記録されている。現在では所在不明の社も多 いが、現存する神社は式内社と呼ばれ、由緒正しい神社として崇敬されている。越後国では56座が採録されており、石船神社は磐舟郡8 座の筆頭に記されている。
 大同2年(807年)北陸道観察使、秋篠朝臣安人が下向のおり、京都貴船町より貴船明神を勧請して石船神社に合祀し、社殿を建立し ている。このため中世においては貴船大明神と号した。町の人たちが石船神社を「明神さま」と呼び、神社のある丘を「明神山」、神社の 前を流れる石川に架かる橋を「明神橋」と呼ぶのはその時代の名残である。
 正徳4年(1714年)に石船明神に複合し、宣旨により正一位を授与され社殿を造営しているが、中世以降、平林城主、ついで歴代の 村上藩主の崇敬篤く、神領の寄進や社殿の修復が度々なされている。明治5年には、加茂町(現加茂市)の青海神社とともに「両社ハ当管 下 式内社内に於いて最確然且社殿地景共 他社の比類ニ無御坐候」として、県下最初の県社に列せられている。社殿の裏手に広がる椿林 の社叢は昭和33年、県文化財(天然記念物)に、例祭は昭和63年、県無形民族文化財に指定されている。
神泉
 祭神は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、罔象女命(ミズハメノミコト)、タカオカミノカミ、クラオカミノカミ、の四柱の神々であ る。罔象女命以下の三柱の祭神は貴船明神の神々であり、水を司るといわれる。これは神社境内において、 清水が湧出することから、祀られたのではないかと考えられている。
その清水は、 参道の石段を登る中ほどにあり、神泉として今も大切にされている。あるいは、饒速日命が本来太陽神(転じて火の神)であったことから、 水の神を合祀することにより、陰陽を調和させたのではと推察する意見もある。石船(いわのふね)から貴船(きのふね)へと変化した対 照の妙とともに、興味をそそられる意見である。

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