註釈

■ 磐舟柵
 磐舟柵の跡はまだ発見されていない。昭和32年の調査で「石廓堡」と命名された石室が発見されたが、それは墳墓であり、成立年代が 磐舟柵の成立より100年ほど以前のものであった。それらは現在「浦田山古墳群」と呼ばれる。
■ 城下町
 戦国時代末まで、本荘氏の本拠地であった。甲斐武田とならび戦国時代最強をうたわれた、上杉謙信率いる越後兵の中でも揚北勢(あが きたぜい)と呼ばれる、越後北部の兵が最強であったとされる。謙信にとっていわゆる外様である揚北勢(阿賀野川の北部地方の豪族たち。 揚北は阿賀北とも表記する)は、頼もしくもあり脅威でもあった。現に村上城主本荘繁長は謙信に反旗を翻しおよそ1年にわたって攻めら れたが、ついに屈すること無く後に和睦をしている。上杉氏の米沢移封に伴い本荘氏が去った後、豊臣・徳川政権により次々に領主が交替 している。村上藩は最大時で15万石、当時の越後では高田に次ぐ大藩であった。また城主も、徳川四天王と呼ばれた譜代の名家、本多氏・ 榊原氏あるいは徳川家親族の松平氏などが入封しており、幕府は村上藩を重要視していたが、それは当地域が磐舟柵以来の歴史的な拠点で あったからである。
■ ...水田に作り上げてきた...
 その証拠に、昭和42年8月の羽越大水害においては、荒川の堤防が決壊し、これらの美田のほとんどが水没する惨禍に見舞われた。
■ 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
 日本神話においては、皇室の祖先神アマテラスミコトの命により孫にあたるニニギノミコトが天津国より高千穂に降臨し、さらにその子 孫にあたるカムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)が日向より大和に進行し(神武東征)、橿原宮で即位、建国したとされている。ニ ギハヤヒはそれに先立ち大和に降臨したと記されているが、畿内におけるアマテラス以前の太陽神=最高神であったという説もある。
■ ...饒速日命は、古代大和王朝の大豪族「物部氏」の祖先神であるとされ...
 大和王朝成立以前、畿内に物部氏の国家が存在し、それこそが邪馬台国であるという学説もある。生駒山のふもと、現在の大阪府東大阪 市に日下(くさか)という地名がある。古くは「草香」だったらしい。物部の本拠地であった大阪湾周辺部から見ると、生駒山から昇る太 陽の下にあたるためと「日下の(ひのもとの)草香」と呼び慣わした。これが転じて「日下」と書いて"くさか"と読むようになったので ある。「日下の」の字が「日本の」に変化し、「日本」という国号の始まりになったともいわれる。大阪湾周辺部と生駒山の間の河内平野 は当時、河内潟という大きな潟であった。新潟大学の小林教授は、村上市の山辺里地区にも、日下という部落があることに注目している。 かつては岩船潟によって岩船と内水面でつながっていたと考えられ、大阪の例と地理関係が酷似しているところから、当地の日下を東方に 見る線上に、磐舟柵の比定地がある可能性を提示しておられる。
■ 弥彦神社
 岩船では弥彦神社を兄、石船神社を弟と両社を兄弟であるとしている。石船神社本殿前には、弥彦遥拝の鳥居がある。一説に石船神社の 祭神「饒速日命」は、弥彦神社の祭神「天香具山命」の父君であるとする。
■ 物部の一族
 竪穴系横口式石室という「浦田山古墳群」の形状や、頸城郡や佐渡における物部系神社の分布など、当地に磐舟柵成立以前より、物部系 の人々が移住してきたとする傍証は数多い。
■ 清水が湧出する...
 現在の明神山は岩山であるとは見えないが、中腹における地下水の湧出は、内部に岩盤層が存在する証拠である。
■ 興味をそそられる意見...
 石船神社よりさらに北へ向かうと、道のつきあたり鬱蒼とした杉木立に囲まれて、曹洞宗の名刹、諸上寺が建っている。磐舟柵成立頃、 天台宗感応寺としてすでに存在していたとも伝えられるが、その後荒廃し、室町時代(1475年)に復興され諸上寺と名を改めた。再 び寺運が衰退したが、天正元年(1573年)本荘繁長が再興し、今日に至っている。8世紀初頭、越後国は現在の新潟・山形両県のほ ぼ全域にわたっていた。越後国の一番大きかった時代であるが、諸上寺はその頃の政庁舎(今でいう県庁)だったと考えられている。政 治が「まつりごと」であり宗教と未可分だった時代に、軍事拠点である磐舟柵および現諸上寺にあったと推定される越後国政庁舎と関連 して、石船神社は重要な役割を果たしていたものと思われる。
■ 先太鼓
 先太鼓を「ヤレカカ」と呼んだりもする。これは太鼓のリズムに合わせて「やれ嬶ぁ起きれ おかぁまんま蒸かせ」(さあ女房よ起きろ、 赤飯を蒸かしてくれ)と、戯れ唄を歌うからである。
■ おしゃぎり
 「しゃぎり」の本来の意味は、笛だけ、あるいは笛に太鼓・鉦を合わせたお囃子をいう。歌舞伎の幕間などで奏される。そのお囃子を祭 礼屋台で行なうことから、転じて屋台を「しゃぎり」と呼ぶようになったと思われる。隣町の村上大祭では本来の「しゃぎり」を奏でる塗 りの入らない白木の屋台を「おはやし」と呼び、塗り金箔をほどこされた屋台を「おしゃぎり」と呼ぶように、さらに転化が見られる。
■ ...10月19日に改め...
 太陰暦から太陽暦に代わったことによる祭礼期日の変更は、村上大祭でも行なわれ、6月7日から7月7日に変更されている。当地で、 節句や七夕を月遅れで行なうのも、このことによると考えられる。岩船大祭の場合、明治5年の太陽暦採用以降も、暦の上での期日を変 えずに9月19日に行なっていたが、稲刈との兼ね合いなど、実際の季節と合わなかったため、明治11年9月19日の、明治天皇の新 発田行幸を機に、本来の期日に近い、月遅れの10月19日に変更している。
■ お囃子
 お囃子は各町内に「通り」と「帰り」がある(岸見寺町と地蔵町は「通り」だけ)。「通り」は通常のお囃子で、格調高く悠長な曲が多 い。「帰り」は一度通った道を、再度通る時に使用するお囃子で、「通り」に比べて太鼓の多く入るテンポの早い曲である。惣新町と下浜 町には、他に「もみだし」という返礼用のお囃子がある。
■ 笛吹き
 「笛吹き」は、町内や若連中からお願いしておしゃぎりに乗ってもらい、日当も支払うというほど権威ある役目である。おしゃぎりに乗 る時は紋付を着用し、たとえば法被姿で笛を吹いたりすることは、岩船では原則として認められない。
■ 乗り子
 つい最近まで、おしゃぎりに乗られるのは男の子だけであったが、児童数の減少もあって、今は男女にかかわらず乗られるようになった。
■ 42歳まで
 岩船の若連中は、呼び歳15才の正月に入会し、呼び歳42才の正月で退会というのが長い間の不文律であったが、人口の減少から年令 を延長し、現在では呼び歳45才で退会とする町内がほとんどである。
■ 法被
 同じような祭礼のある村上や瀬波では、法被は個人持ちなので、法被に役職名は入らずそれぞれの家の名前が入る。
■ 誰でもがその職に就けるわけではない
 岩船では大祭以外の伝統行事も多く、また各種スポーツ行事も目白押しである。ほとんどが若連中の組織を主体に運営されるため、会長 の負担は大変なものがある。
■ 祭り小袖
 男の子も「祭り小袖」といわれる、女の子の振袖のような華やかな着物を着る。おしゃぎりの乗り子が男子だけだった頃から、乗り子の 衣装はきらびやかで、岩船祭りの特徴の一つである。
■ 礼服を着用し
 若連中の年令を過ぎた人たちで、各町内ごとに「警護(警固)」の羽織を作って、礼服の代わりにその羽織を着用するようにないつつあ る。
■ 「帰り囃子」
 「通り囃子」は同じ道で二度演奏はしないことになっている。神社を出発してからの屋台巡行で「通り囃子」を奏でなければならないの で、神社までは「帰り囃子」で行く。
■ 五分間隔で決められているため
 一番早いおしゃぎりが、午前7時に神社に詰める。
■ 大通り
 町の真ん中を通る国道345号線。
■ 木遣り唄
 木遣り唄には、寿ぎの場面で歌われる「本木遣り」と、お船様を移動させる時に歌われる「どっとこ木遣り」とがあり、この場面では、 後者が歌われている。
■ 猿田彦命(さるたひこのみこと)
 「猿田彦命」は、ニニギノミコトの高千穂降臨の際に、道案内を務めたとされる神様である。
■ 装束
 先太鼓の装束について、青森「ねぶた祭り」の「跳ね人(はねと)」の衣装との類似性を指摘する意見もある。
■ 「木遣り上げ」の衆が
 「どっとこ木遣り」とほぼ同じ旋律の唄は、全国の何箇所かに伝えられている。たとえば、北海道の鰊漁の際に作業歌として唄われた、 「鰊場音頭」のうちの「沖上げ音頭」もその一つである。最盛期の頃の鰊船には、綱に一つも手をかけることなく、歌の音頭を取る専門の 「ハオイ船頭」が、羽織袴姿で乗り込んでいたといわれる。岩船の「木遣り上げ」の衆は、その姿を伝えているのではないかと思われる。
 「本木遣り」については類似する曲が見当らず、岩船独特のものであると、高い評価を受けている。
 「(前略)中でも木遣りは、洗練された実に芸術的な唄である。各家の前に到着すると、まず一人が高らかに唄い出し、若衆の裏声を使 用した珍しい掛け声が続く。先唱者の磨き上げられた喉(のど)は見事で、思わず聞き惚れてしまう。唄の後半は、双方の声が同時に重ね られ、細やかな旋律の独唱と、取り巻く太い声の帯が調和する。まさに『日本の男の声』である。(後略)」
(伊野義博・新潟大学助教授  平成7年11月1日付 新潟日報より)